「道徳」(本書では、道徳の時間には「」をつけて呼んでいる)は価値の押しつけだ。でも道徳は、自分と社会を扱う「公共性」を扱うものだ。このように考えると、道徳はシティズンシップの一環として扱われるものだ。つまり、共同体の成員として主体性を発揮できるように、もっと子どもの主体性を養うことが必要なのではないだろうか。では、なぜ主体性を養わなければならないのか。それは、世名の中をよくするためだ(p.29)。それは本来政治教育と呼ばれている。そのような教育は社会科では難しい。そこで、代替案として「哲学」を提案する。
という問題提起のもとに論が進む。哲学の大切さを言及している。「本来~だから○○しよう」という論の進め方だと、反例が多く出せるのだが…。それについて答えられるのだろうか??
もちろん哲学の大切さは否定しない。ではなぜ「政治教育」ではなく、「道徳教育」と呼ぶのか。そもそも、政治教育と道徳教育は同義なのか??
教育の専門家でない人はすぐに、「哲学科」をつくろうなどと提案する。でも枠組みだけ提案して中身についてはあまり触れない…。この本を読むのであれば、河野哲也『道徳を問いなおす』を読んだ方がいい。
2章から6章では「哲学する」より、哲学者の知識を学ぶ側面が強いように感じた。
(まっちー)
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- 感想投稿日 : 2014年1月27日
- 読了日 : 2014年1月27日
- 本棚登録日 : 2014年1月27日
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