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イロイロ(asuka) > 読み終わった


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読んだ本とか、読みたい本とか。勁草書房とか、東大出版会とか、Oxford U.P.とか。最近は小説ばっかり。

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チョコレートの歴史

ソフィー・D. コウ マイケル・D. コウ Sophie D. Coe Michael D. Coe 樋口 幸子

/ 河出書房新社 / 1999年03月 発売



タイトルだけ見て満足していては損をするかもしれない。私自身、手に取る前はあまーいチョコレートのあまーい歴史だと思っていたが(つまり歴史とは名ばかりの内容の薄い本だろうと甘く見ていたのだ)、そんなことはなかった。むしろ、驚くほど冷静で、科学的なチョコレートの歴史だ。

食品について、ときどき不思議になるのは、いったいいつから、その食べ物はその食べ物として認識されるようになったのか、ということだ。たとえば、スパゲッティなんて面倒な食べ物をいったい誰がいつ、どういうきっかけで作ることになったんだろうか、と。そして、たいていそういったものについて調べた結果は、「起源は諸説ある」というたいして実りのない、雑学的な知識の範囲に留まる。

ところが、この本の著者、正確には構想と調査、初期の執筆をになったソフィ・コウ氏はそんなことでは満足しない。諸説の出所をすべて調べ尽くし、さらに遡ってあらゆる文献や資料を漁り、それらを冷静な観点から並べ直し、検証する。そうして、彼女と彼女の夫は、最終的にマヤ文明よりもさらに前に起源を見出す。

だが、起源を押えるだけでは留まらないのがこの本の「歴史」たるゆえんで、その後17世紀のスペイン、18世紀のイタリアやフランスを経て、近代のイギリス、アメリカ、そして現代の新しいチョコレート産業にまで言及する。こうなってくるともう一大叙事詩である。

また、著者二人がずっと、カカオ農園の悲惨な労働状況についても言及しており、最終的に、それは面白い形で現代において償還される。
(あらゆる贅沢品と同じく、カカオは、そしてそれから生まれるチョコレートは、多くの労働力を犠牲にしてきた。)

チョコレート好きにも、歴史好きにも、ぜひ読んでみてほしい、おすすめの一冊。


2012年05月19日 | コメント(0) | history | 読み終わった (2012年05月19日) |

未来のイヴ (創元ライブラリ)

ヴィリエ・ド・リラダン 斎藤 磯雄

/ 東京創元社 / 1996年05月 発売



完璧な美貌を体現したはずのアリシヤは、認めがたい醜い人間性を持っている。それゆえ、恋人のエワルドはその魂がなくなってしまえばいいのにと願う。するとそこへ魔法使いエディソンがやってきて、願いを叶えてしんぜようという。そして願いは叶う。エワルドは<本来こうあるべきはずだったアリシヤ>を手に入れる。


 *


中盤で読者は、エディソンの長口上に対する疲労感をエワルドと一緒に味わうことになる。なぜなら、それは極めて「実証的」で、どこにも「魂」や人間的なものが見いだせないように思われるからだ。


そもそもエワルドの願いとは、<人間アリシヤ>がその魂を入れ替えてくれたら、人間でありながら奇形的な美しさをもつという類まれなる事態、奇跡を自らの手に入れられるのに、ということである(それが叶わないから死のう、というわけ)。

それに対してエディソンが提案するのは、人間アリシヤの更生(=魂の入れ替え)ではなく、むしろ肉体のほうの交換であり、すなわち人造人間の創造であり、そこに理想通りの魂を入れてしんぜようというものなのだ。


当然エワルドの願いは、人間アリシヤの更生であって、血の通わないアリシヤそっくりの人形を手に入れることではない。そんなのは自分の願いを叶えることにはならないだろう、とエワルドの疑いはなかなか晴れない(恐らく最後の絶望の瞬間まで)。

しかし、エディソンは問題を巧みに入れ替える。あなたがアリシヤに感じとっている美、そしてそこから望んでいる理想的な魂というのは、すべてアリシヤの外見的特徴から再現可能であるのだから、外見的特徴を完全に備えた人形を作れば、あなたはおのずからそこに理想の魂を見出すことができるでしょう、とこういうわけだ。


エディソンの再三にわたる詳細な説明にもエワルドは半信半疑である。よもやそんな完璧なものはできまいと思い、ハダリーになんらかの思いを感じながらも、最後の最後まで、人間に人間を作れるわけがない(=人間アリシヤに代わるものなど作れっこない)と信じている。

そして、この懐疑はエワルドを介してはいるものの、読者自身の懐疑でもある。読者はエワルドと一緒にエディソンの解説に興ざめしながら、やっぱり人造人間なんてできませんでしたとなるんじゃないのかと不信な思いを払しょくできない。
できるというが、できるわけがない。という葛藤。


では、どうすればその不信を払いのけられるのか。
リラダンの与える解答は極めてシンプル。すなわち実際に完璧な人造人間を作りおおせること(=騙しおおせること)によってである。


エワルドの最後の絶望は、いったんは、人間アリシヤはやはり存在しなかった、自分の感じたアリシヤに対する深い愛情を肯定する材料は、すべて幻であったのだという思いから来ている。
だが次の瞬間、エワルドの思いは反転する。エワルドが求めていたのは、むしろ最初から幻だったのであって、人間のアリシヤなどではなかったのではないか。アリシヤという名の元に求めていたのは理想体、肉体と魂の完璧なる調和だったのではないか。
まんまとエディソンにしてやられるというわけだ。


 *


ここでリラダンは、ひとつの理想のあり様を描いていると言える。

完璧なものがあれば、それは必ずや理想を現実化できるはずだ、という希望。
それがどのように達成されるかということにはお構いなしだ。もし達成されるなら、そこにあるのは理想通りものもであるという、一つの思考実験を、リラダンはエディソンを通じて行った。

完璧な美というものが完全なる人工的な美と限りなく近づくということ。
言い換えると、人間には完璧な調和などというものは出来ぬ相談で、あり得ないのだということ。
人間における奇跡を求めながら、人間に似せたものでしか奇跡を起こせないのだという矛盾。


リラダンは、このあり得ぬものを、最終的に消去してしまう。ハダリーという完璧な恋人は、まさにその最初の存在通り、幻想の彼方に消える。

魂とは、そもそもの最初から愛する肉体に見出す幻想であり、私たち自身が他者に求める理想的な思想のことだ。

完璧に再現された肉体によって、エディソンは人間ならざるものを、人間と同じか、それ以上の崇高な存在として認めさせることに成功した。魔法使いエディソンの腕前をご覧あれ、といったところ。


2011年04月04日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年04月04日) |

デンデラ

佐藤 友哉

/ 新潮社 / 2009年06月 発売



『フリッカー式』以来の佐藤友哉。この10年が彼にとって意味のあるものだったことがうかがえる。つまり、私はこれを佐藤友哉自身の成長譚として個人的に読んだ。

デビュー作を読んだ時は、そもそも彼の文章がプロのものとは思えなかった。その違和感、なぜこれが小説として成立するのかという疑問を、今作でようやく和解させることができたと思う。

物語として、特別に新しいところはない。作りがうまくなり、長編としてのフックをしっかり埋め込み、最後までひっぱっていく仕掛けはできている。それにどのような服を着せるか、あるいはどのような肉をつけるか、という問題だ。

言い換えると、物語の筋でもキャラクタでもないところにある、いわば、佐藤友哉という有り様、彼の方法の確立が問題だった。

それを、彼は見せることができるようになったんだ、という感動があった。中盤の停滞感や困惑、クライマックスからラストへの、文字通り坂を転げ落ちる疾走感、生命そのものとしての感覚の描写、そういったものを、彼は彼のやり方で表現できるようになった。

だから、これは物語そのものへの感動ではないのかもしれないし、この印象のせいで万人にお勧めするというわけにはいかない話だろうとは思う。なにより、ホラーやグロテスクな描写が苦手な人はあまり好きな話ではないはずだ。

だが、そういういろいろをひっくるめてみても、やはり最後の疾走の描写は、あるカタルシスを内包している。

熊のような野生でもなく、人として生まれ、生き、死ぬということを拙いなりに考え、その答えを出そうとし、出した人間にのみ許される境地で、たとえその境地が俗なものであったとしても、彼はそれを描こうとしたのであり、またどうにか描いてみせた。

だから、私には福寿草の柔らかな芽が広がる情景がありありと浮んできたし、もしこの小説がある解放を目的とするのなら、それまでのすべてがこのシーンのためにあったと言ってもいいくらい、見事な解放感だった。

それは極楽浄土なんかではないのだが、にもかかわらず、それこそが求めてきたものだという思いがあふれていて、恐らく死の隣にいる場面でありながら、光に満ちていた。


2011年05月03日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年05月03日) |

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

カート・ヴォネガット・ジュニア 伊藤 典夫

/ 早川書房 / 1979年07月 発売



ヴォネガットがこの話で何か伝えようとしていたとするなら、それはこんなことだと思う:

人間はちっぽけで愚かだけど、そして沢山の間違いを犯すけど、でも人間てそんなに悪くないよ、ぼくは人間のことが好きだよ、たとえ結末がどんなに寂しいものになっても。

そして、もうひとつあげるなら、見方を変えなよ、ということ。
真面目すぎる視線を流して、斜めから受け取る方法をこの本は教えてくれるはずだ。ボコノン教という名前の、新しい宗教と一緒に。

正直なところ、書き手のシニカルな視線にはげっぷがでそう。でも、科学者の好奇心が世界を終わらせる物語は、今のこのタイミングで読むと、ぞっとする。

ただ、真摯な科学者って狂信者ではなく、むしろヴォネガットのように、真実を斜めから見ることができる人たちじゃないかな、ということは付記しておく。

その意味では、このお話の中で、科学は宗教だし、宗教は科学なんだ。


2011年05月11日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年05月11日) |

ディフェンス

ウラジーミル・ナボコフ 若島 正

/ 河出書房新社 / 2008年09月19日 発売



緻密な描写と構成によって組み立てられた、精緻な構造物であり、同時に、美しいとさえ言えるほど勇敢で哀切な物語。

こんなに結末が来ないでほしいと願った小説はなかったし、最後の数章を読み進めるのは辛い作業だった。なぜなら著者は前書きでその結末をすでに明らかにしていたからで、要するに物語は詰めチェスと同じ構図を最初からとっていた。

ルージンは死に向って直進している。自分に与えられたいくつもの可能性を何度も見返しながら、それでも真っすぐに。不器用な有様、自ら幸せを勝ち取ろうと意志によって(けれど意志とは関係なく)死に突き進んでいく有様は、ほとんど直視できないくらい痛々しい。彼がそれを最善の選択だと信じていたからこそ、その結末を見ることが苦しい。

だが一方で、私は作者であるナボコフのやり方に感嘆してしまう。

私たちは自信を持って選び取った答えが正しいかどうかをよくしらない。正しいと信じ、あるいは正しいことになるようにあらゆる可能性の中から一つを選びとるのだけど、本当にそれでよかったのかどうか、最後の瞬間になるまでは結局よくわからない。

ルージンも同じだ。ルージンにとっては、注意深く駒を進めていく中で最終的にゲームの放棄として選び取った最後の選択、自殺という選択は、実際には作者によって道をつけられた、詰めチェスの最後の一手であって、残念なことにまだゲームの中なのだ。

ルージンは作家によって設定されたプロブレムの中で、自殺を運命づけられたキングだった。でも、その結末に収束していくからこそ、ルージンの世界は美しい一致を描くことができる。ナボコフとは何と残忍で、巧妙な作者であることか。

そしてそれでもなお、この物語からは全編を通じて作者の言う「温かさ」が感じられる。

それは作者がルージンに伴侶を与えたことでも、そのきらめくような子供時代の思い出を与えたことでもない。むしろ、最後までもがき続けるルージンを決して目をそらすことなく、僅かな空気の震えさえ逃すまいとして描きつくしたことの中に、そのルージンが滑稽なまでの勇敢さで自分を支配する力に立ち向かっていくことの中に感じられる。

自分ではどうしようもない力、逃げることすらできない絶対的な支配の中で絶望することを、これほど美しく悲しく正直に書ける作家を私はまだ他に知らない。


2011年04月01日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年03月31日) |

スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)

カート・ヴォネガット・ジュニア 伊藤 典夫

/ 早川書房 / 1978年12月 発売




2011年07月13日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年07月14日) |

鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)

アイザック・アシモフ 福島 正実

/ 早川書房 / 1979年03月 発売



結局、人を救うのは人自身だ。人は自ら忌み嫌ったロマンチシズムによって救われることになる。知的な理性と物理主義によってではなく。

ロボットを考えることは、めぐりめぐって人を考えることになる。ロボットに何をさせるかは、私たちが何をさせたいかによるし、ロボットができることは、私たちが可能にしたことだからだ。私たちは私たちの鏡としてのロボットを知っている。

それなら、ロボットは人間になりうるだろうか。
魅力的なロボット像を描く一方で、アシモフはロボットが人間と同じものになりうるという考えを否定している(少なくとも本作では)。彼らは人間とは異なるものとしてのみ、人間の社会と交わることを許されている。人間とロボットは明確に違う。

では、ロボットと人間は何が違うのか。
ここでは、目的を越える信念を持ちうるか否かの違いとして描かれる。ロボットは目的を越え出る信念を抱くことはない。信仰も、それゆえ神への畏敬も抱くことはない。一方で、人間は無目的な欲求や信念を持つことができる。明確に何か定められたゴールではなく、漠然とただ進むことができる。

それゆえ、アシモフの描く人間像とは、なんらかの創造性をもつ存在だ。これまでになかったものを生み、育むことができる存在だ。そして一方で、未定の未来に対して何らかの希望を抱くことによって、どうにか生きることができる危なっかしい存在だ。とても不安定なのだ。

安定を望みそれを実現しながら、あるとき唐突にそれに対する疑念を抱き、そこから抜け出そうとする。この運動を、人間とロボット、そして宇宙人という存在を使ってアシモフは見事に描いたと思う。彼の描く人間らしさとは単に感情的であるということではなく、むしろ継続的に未来に対して希望を持とうとする心の動きそのものなのだ。


2011年07月13日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年07月13日) |

天使 (文春文庫)

佐藤 亜紀

/ 文藝春秋 / 2005年01月 発売




2011年07月14日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年07月14日) |

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

ネルソン グッドマン Nelson Goodman 菅野 盾樹

/ 筑摩書房 / 2008年02月06日 発売



世界は制作される。以前のヴァージョンの改訂として。
本書を通じて、グッドマンはこの点を強調する。

それゆえ、今の私たちにとって意味のある問いとは、世界の存在についてではなく、その世界の作られ方や過程の方だ。原初の世界のようなもの、無垢であらゆるヴァージョンの根底に横たわるような安定した世界のようなものは、あるとしても、空虚だ。私たちはすでに世界の中におり、その世界の中から次の世界を作り直すしかない。

グッドマンは手の届かない場所にある真理や、その探求においてロマンティックに注がれる視線よりも、手の届く場所にありながらあまり考えられたことがない問題や、より日常的な視線を好む。そしてその視線を保ち続けることで、素朴に捉えられている世界の見え方を覆す。

それは手品師のように鮮やかな手つきだが、実際そのタネはいつも目の前に広げられていることに読者は気づくことになるだろう。


2011年04月15日 | コメント(0) | philo | 読み終わった (2011年04月02日) |

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

高橋 源一郎 加藤 典洋

/ 講談社 / 1997年04月10日 発売



どうしてこの小説がポップと言われるのか、考えていた。答えは、深刻じゃないからだ。

死、精神の淵、切り詰められ選び抜かれた要素(純粋さ、美、憎しみ、情熱、等々)といったものはこの小説には出て来ない。それらのテーマはすべて深刻なものだが、ここにあるのは、強いて言うなら、愛だけだ。

それからこの小説には一般的な意味での論理はでてこない。著者は推論よりは比喩を、説明よりは描写を、意味よりは語感を選ぶ。だからこの小説は小説らしさよりは、むしろ詩らしさをつよく帯びている。

つまり構造的枠組みの構築より、連想の繋がりのよい場面を選んで並べる。部分においても、それまでになかったかもしれない言葉同士の関係を引き出してみせ、そのまま立ち去る。この小説のよくできているところは、このように全体と部分の構造がとてもよく似ていることだ。だから一見すると適当に言葉を並べているようでいて、一定の秩序を感じとることができる。

この秩序が嫌だと感じる人もいるだろう。好きだと感じる人もいるだろう。けれどその詩らしさを失わずに小説として形を保っていられるということそのものに、私は驚きを感じる。そして、小説の自由さと、言葉の自由さに、また気持ちを奮い立たせるのだ。


2011年04月14日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年04月14日) |

最後のユニコーン (ハヤカワ文庫 FT 11)

ピーター S.ビーグル 鏡 明

/ 早川書房 / 1979年10月15日 発売



私たちは自分の見たいものを見る。何を見ても、そこにはある種のバイアスがかかる。
純粋にニュートラルな視線というのがありうるとして、それはおそらく論理か言語そのものの中にしかなく、私たちはそれを解釈によって読みとるしかない。世界の真実の純粋さは最初から願うべくもない。

だが、魔法は一方的に訪れる。魔術師はそれを呼びよせ、通過させるにすぎない。莫大な力は唐突で、有無を言わせず、思い通りにならない。魔術師はただ、真実を強制的に反転させる装置として存在するだけだ。そして魔法はいずれの真実を表出すべきかを、それ自身では決定できない。

だからユニコーンが美しい少女になったとき、それは彼女自身がまったく望まないことだった。次第に、彼女は彼女をうまく見ることができなくなる。彼女という真実、ユニコーンの存在は、魔法によって強制的に覆い隠され、閉じ込められて、見えなくなる。彼女自身にさえも。

真実の反転に伴う永遠からの転落。時に従属し、老い、死ぬ。忘れ去られ、失われ、同時に、変化が新しい真実となり、根付く。

いずれの真実が正しいのか、もはや誰も決めることができない。それらはどちらも真実でありうるからだ。そして彼女を救うのは、結局のところ彼女の信ずるものと、彼女の望むものでしかない。

それで、だから、彼女は唯一のユニコーンになった。悲しみを知る永遠という矛盾そのものになったのだ。


2011年04月04日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2011年04月02日) |

わたしを離さないで

カズオ イシグロ

/ 早川書房 / 2006年04月22日 発売



重苦しくなりがちな設定だが、主人公の思い出語りを中心に展開する一人称の小説であり、主人公が終始前向きであることで重苦しさをひきずることはなかった。翻訳の良さも手伝ってか、最後までテンポ良く読める。

いくつかあるテーマのうち、ひとつは他人との隔たりだ。一つの出来事を巡って、思い出される出来事は同じようでも、その実そこへあてがわれる解釈は自らのものとは似ても似つかない。共有されているようで、決定的にずれている。

そして、見ずに済ませたい、見ていないことにしたい、できればずっと未決のままがいい。そういう未熟な時期から、否応なしにすべてが決まり決めることを要請される時期への移行、つまり時間が進み大人になることに伴う甘く暗い絶望的な苦痛。この描出が見事だ。

自分の行き先について諦めてしまえば楽になれるのはわかっているが、高潔であれと教えられるが故に受け入れることができない、この葛藤。生まれること、生きること、がいかに膠着した現象であるかを、主人公たちを通して私たちは思い知る。それでもなお繰り返し生まれ、繰り返し生きなくてはならない。
皮肉なことに、主人公たちはそれを肯定的に受け入れる。だから私たちもまたそれを受け入れるほかない。なぜなら私たちはもう生きてしまっているからで、そしてそれが言祝ぐべきことであってほしいという希望のもとに生きているからだ。


2011年04月02日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2008年10月04日) |

パプリカ (新潮文庫)

筒井 康隆

/ 新潮社 / 2002年10月 発売



2006年、今敏監督マッドハウス制作で話題になった映画『パプリカ』の原作、としてのほうがよく知られているかもしれない。

白眉は、やはり夢を描いた部分にある。特に、千葉敦子が目覚めていないことに気がつかないまま敵の手中に落ちていく際の描写は、ぞっとするほどよくできている。思考の暴走を止められないことの気持ち悪さと、それをおかしく思えないせいで世界に浸っていく甘美さとが(たとえ悪夢であっても)淡々とした描写から迫ってくる。

その描写はいわば、文章を追う目覚めている私自身が、今目覚めていることの事実を疑ってしまうほどにリアルだ。まるで、文中に登場する分裂病患者の夢をモニターしながら自らも発症した、未熟なセラピストのように。

そして、物語がつじつまが合うように語られ尽くしているということが、余計に完結した世界を作るのに貢献している。取り残された部分なく、世界が終わることの安定感。夢が終わることによってのみ、私は夢の終わりと、その安堵を受け容れることができるように、『パプリカ』という作品の自己完結性が、「この世界はここまで」と告げてくれる。それはあくまでも語られた夢なのだが、夢であるからこそ、終わりがきたものだからこそ、語り尽くすことができる。現実は常に語り尽くせない。語り尽くせないものは、夢ではない。

ここには矛盾があるだろう。夢を無意識の世界として考えるなら、それはむしろ汲み尽くせない領域だ。汲み尽くす、つまり語り尽くすことによって夢を物語に閉じこめるなら、それはもう、夢ではない。夢を物語ったものは、やはり物語でしかない。

だが私が夢を見るということが、現実におこることであるのと同じように、物語が夢を見るということも、可能なはずだ。だとすれば、『パプリカ』は物語がみた夢であり、夢見るのが物語である以上、それは完結せざるを得ない。多少謎めいたラストシーンもあいまって、『パプリカ』は私にそうした解釈をせまる。

最終的には、おそらく、現実との混入を意図していて、それは物理的組成をもったものが夢の中から出てくるというわけではないにしろ、パプリカに描かれた夢と現実との混入を自らの状況に照らし合わせるという行為をもとにして、現実にある私に対して現実的変化をもたらすという意味で、相当混入していると思う。だがそれはすべからく物語が通常もつ効果であるに違いない。


2011年04月01日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2007年01月26日) |

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

伊藤 計劃

/ 早川書房 / 2010年02月10日 発売



『虐殺器官』は、果物で言うならうらなりの、未成熟な小説だ。繰り返し、もつれ、戸惑い。率直過ぎるフレーズ、尻すぼみのラスト。消化されるまでもうすこしの食べ物みたいに、ずっと煮え切らない現実が残り続ける。虚構まであといっぽの物語。

あるいは、死を目前にした自意識との葛藤。それは小説を書く自己との葛藤でもあり、だから『虐殺器官』は私小説だと言うこともできる。伊藤計劃がつくりあげた「わたし」の物語だ。

ただ、完全な虚構世界にできないところが伊藤の未熟さであり、また、この小説の未熟さなのだとおもう。つまり伊藤は完全に、自意識を小説から離脱させることができなかった。彼は自己の葛藤を小説に投影せざるを得なかった。それは職業的小説家はしないことだ。

いうなれば、小説の骨格が、小説の肉と分離してしまっている。

きっと彼は、骨に肉をなじませている余裕がなかったのだろう。それはアイデアとしてとにかくアウトプットされ、わずかばかり滑らかな表面を与えられただけで、皮膚の下は混とんとしたままどうにか形をなしていた。

にもかかわらず、私は感情として、彼の小説を好きだと思う。小説としては未熟かもしれないが、彼がアイデアを練り勉強し小説という形にしようとしたものを、私は嫌いにはなれない。まったく冷静な判断ではないけれど(まあ、判断はいつも価値判断であるのだし)。

つまり、彼はこの小説を書きなおすことがもうできない。彼は死んでしまった。そして私は少なからず、その事実からさかのぼって彼の小説を読んだ。私の視線は最初から歪んでいる。

未完成であることの完成度。彼は死によって永遠にその完成を放棄せざるをえない。そして私たちは、私たち自身で、彼を補足しなくてはならない。彼のあり得た可能性を私たちは想像し、その想像の中で彼は少なからず価値を与えられ、いま評価されている。


2011年03月30日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2010年08月23日) |

煙か土か食い物 (講談社ノベルス)

舞城 王太郎

/ 講談社 / 2001年03月07日 発売



舞城王太郎のデビュー作。

外科医の言う「死なないよ」はどうしてこうも説得力があるんだろう。

それでこの人の文体ってリズムなんだと思った。チャッチャッチャッチャって言葉がそれを喚起するのかもしれないけれど、ザーッとかドバーッとかって音が似合う小説なんて、初めて読んだ気がする。

それでぐちゃぐちゃのどろんどろんになりながら、軽々と流れていってしまうのが、ぞくっとしつつも、心地良くあったり。


2011年04月01日 | コメント(0) | novel | 読み終わった (2007年06月28日) |


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