沖繩ノート (岩波新書 青版 762)

著者 :
  • 岩波書店 (1970年9月21日発売)
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感想 : 41
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 また、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きましたね。なんべん同じことが繰り返されたら気が済むのでしょうか。いきどおりで胸がいっぱいになりました。このニュース、朝の報道番組でやっていました。アナウンサーが「沖縄は今、怒っています!」と訴えていました。わたしも「そうだ!」と思ったんですけど、その番組に出ていた出ていた評論家みたいな人が「今、○○さんは原稿を読んだだけだろうけど、沖縄はいま怒っています、って言うのは沖縄は日本とは別だろうということになりますよ。日本が怒っていると言うべきじゃないかな」というふうな意見を言ったんです。これってけっこうショックだった。わたしもそのアナウンサーの方と同じに「沖縄は怒っている」って思いこんでいたんですから。ていうより、与えられた原稿を読むように沖縄に同情的な言葉だけをいじくっている自分に気がついたんです。そうなんですね、沖縄のことをわたしたちはなんか他人事みたいにいつも思っているんじゃないかなあ。この事件は確かに日本の問題だし、そういうことは自分自身の問題でもあるはずなんですね。だけど、私たちの頭の中には沖縄=米軍基地って結びつけるだけじゃなく、自分たちとは関係ないって処理しているところがあるんだと思う。
 いや、それだけじゃないね。相前後して岩国の市長選挙もあって、米軍の再編の問題が問われたんだけれど、岩国と沖縄はやっぱりなんか違う感じがするのね。どうしてだろう。沖縄って、昔は琉球王国で、ひとつの国だったんですよね。それが琉球処分という形で日本に属することになり、そして戦争を理不尽に体験したところであるし、戦後二十七年間アメリカの支配下にあったってのは岩国とはまったくちがうとこかな。
 そしたらこの本を思い出したんですね。『沖縄ノート』。これが本棚の隅にあったわけですよ。岩波新書で薄いから目立たなくってね。手に取ってみたらずいぶん昔の本みたいなので奥付を見ると一九七〇年九月だって。母に聞いたら学生時代に読んだ本なんだって懐かしがってました。
 一九七〇年といえば、沖縄は復帰前。まだアメリカの支配下にあった時代ですよね。それでベトナム戦争なんかがあって、沖縄は重要な軍事拠点だったってんですよね。そして、沖縄の本土復帰って一九七二年だったのだから、ちょうどこの本は復帰のちょっと前に書かれたことになる。この頃大江健三郎は沖縄に通ってこの本を書いたんだ。
 この本で大江は日本人とは何かということを問い続けている。これが本書の主題だ。日本人とは何か、っていうのはナショナリズムを鼓舞するために問うているのではないのね。沖縄という存在と向き合いことで日本人に生まれてしまった自分を問い直す作業のようにわたしには思えた。たとえば「沖縄の、琉球処分以後の近代、現代史にかぎっても、沖縄とそこに住む人間とにたいする本土の日本人の観察と批評の積み重ねには、まことに大量の、意識的、無意識的とを問わぬ恥知らずな歪曲と錯誤とがある。それは沖縄への差別であることにちがいはないが、それにもまして、日本人のもっとも厭らしい属性について自己宣伝するたぐいの歪曲と、錯誤である」なんてね、すごい問題意識だと思う。
 そして大江健三郎は「日本が沖縄に属する」という命題を提起するんです。えっ?だよね。沖縄の本土復帰運動のさなかに「沖縄が日本に属する」と言う人は数多いただろうけど、「日本が沖縄に属する」なんて倒錯した命題を立てるに至った大江はすごいなあ。でも、それってどういうことかって?それは自分で読んでよ。
 ともかくね、プロローグも入れて十編の大江健三郎の思索が詰まっている。それらをひとつずつ読みながら大江と一緒に思索していくと、一九七〇年という時代の中で沖縄と日本を問い詰めていった大江の問題意識はちっとも古くはないと感じました。ていうより、あの戦争を免罪しようという、まして住民を巻き込んでいった沖縄戦を正当化しようという人たちが平然と出てきている昨今では逆に新鮮な問題意識が伝わってくるのね。
 そういえば、渡嘉敷島での住民に対する日本軍による自決命令をなかったことにしようという動きの中で、この『沖縄ノート』は非難されている。そうかなあ、と思って読んでいくとさすがに大江は先をよんでいました。当時の守備隊長が沖縄に来たという報道に触れて、「おりがきたら、この壮年の日本人は、いまこそおりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった」と、その守備隊長の判断を分析しています。「おりがきた」すごい的確な判断基準ですね。大江は言います、「日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申し立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ」というくだりはまさに今、今の日本をあらわしてはいませんか。集団自決命令はなかった、なんてここに来て言い出すのは二度目のおりがきたことを意味するのだろうなって。そういえば平成の御代になって南京虐殺はなかったとか、従軍慰安婦なんていなかったとか、言う人たちが増えてきましたね。なんかそうやって過去を否定するおりがきたと見ているんでしょうね、あの人たちは。
 『沖縄ノート』にはこんな話が書いてある。「たとえば、米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見捨てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。そのような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現しているのである」と。そのようなおりがきたところでの記憶の歪曲をもって大江は自分自身に問いかけているのでしょう。
 そういえばこの『沖縄ノート』を以て大江を告発している人たちが重要視している曽野綾子の『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(WAC 九三三円+税)では、そうした命令は出した記録はないということまでを言い、「勿論、当時は軍人が何よりも偉く、恐ろしかった時代だから、軍から頼まれたことは、即ち命令としか聞こえなかったであろう」(二八九頁)と書いていました。そのことをおりがきたら「命令なんかしてない、勝手に死んだんだ」なんて開き直っているんだと思いました。
 そうそうこの『沖縄ノート』は出版され続けているのできっと読んでね。

★★★★ 四〇年近く前の本だけど、本質は何も変わっていない。沖縄もすっかり変わったようだけど、今回の事件や教科書問題での動きを見れば、本土の人間にとって都合のいいおりがくることなんてあってはいけない。そのためにもぜったいに読んでね。曽野綾子の本も読んでおくといい。おりがきたときの言い訳の参考になるから。

しかし、世の中いろいろだ。僕のいいたいことも読んでほしい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 政治
感想投稿日 : 2010年4月5日
読了日 : 2010年4月5日
本棚登録日 : 2010年4月5日

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