死との対話

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著者 : 山田真美
iamgolgo13or007さん 人権   読み終わった 

 「同和」教育が人権教育なんて方向に間口を広げていくと、「いのちの大切さ」なんて取り上げるよね。で、「いのち」について語れる人間ってどれくらいいるんでしょ。もともとわれわれ教師なんてのは俗人の凡人でさぁ(心理屋さんには言われたくはないけど)、未来しかない子どもたちに「いのちの大切さ」なんて説くことができるんだろうか(いや、説けるわけがない-反語的表現)。結局「いのちは尊いものなんですぅ…」という結論だけを押しつけちゃうんだな。じゃあ、坊さんとか、牧師さんなら説明できるかっていうと学校は宗教教育を行う場所ではないからそれも無理だしぃ。
 まじめに『かがやき』とか『ぬくもり』とかを開いて「いのち」の教材をひもといてみても子どもとの間に温度差があるのはぬぐえないのよね。なにしろ奴らは毎日プレステか何かで何度も死んだり生き返ったりしてんだから。結局、「いのち」の尊さがわかるのは自分が死と向き合って始めてわかるんじゃないかしら。別にワタシが死にかけているわけじゃあないからまだわかんないけど、若い時なんて死の実感なんてなかったもんね。
 「死と向き合う」…わかったようでわかんないことですよ。ま、いちばんわかりやすいのは死者と直に出会うときでしょう。そうは言っても死者なんてそんなにその辺にはいないものでっす。自分の親しい人が亡くなったときにわかるかと思えば、そんなに機会は多くないでしょ。なにしろ平均寿命は長くなっているし、死は一人一回しかないしね。ところが、本書の著者である山田真美さんはまじに死者=死体と出会っちゃうのね。どうしてかっちゅうと、六年間インドで生活してた人なんだけど、インドでは苦もなく死体と出会えちゃうらしいのね。街角でも、病院でも、畑でも…。日本では街角で死体と出会うなんてよほど大事件に巻き込まれないとないことだし、人が死ぬ病院でだって死体と会うことはまずないんじゃない。ところがインドじゃ死体とは日常的に出会っちゃうわけで、そこから死に対する見方っちゅうか、死生観みたいなものが日本とちがってくるんだって。てゆーかぁ、日本のように死を隠したりしないできちんと死と向き合えるんだね。それが実に雑でさぁ、街角でさりげなく人生を終えた人の上を平気で通勤の人波が通り過ぎるとか、病院の待合室で死んだ子どもなんていうのを、診察のついでに見てしまうとか、そんな具合に死体とひんぱんに出会っちゃうと、死について日本にいるのとはちがう見方を持ってしまうのはあたりまえだよね。例えば日本では葬式のために何百万円もかけるけど、インドでは五〇〇〇円くらいで済むらしいし(死体を焼く薪代の実費らしいけど)、墓も戒名も坊さんに払う手間賃(おっと、日本ではお布施というらしいが)もいらないみたいなんだ。考えてみれば立派な葬式なんて、のこった人間の自己満足みたいなもんだよね。だって死んだ人間には関係のない話だもん。
 本書では死者=死体と出会うことから始まって、インドでのいろんな体験を踏まえて著者の死との対話が記されている。と言ってもこの本は「死についての哲学的考察」みたいなものじゃなくて、あくまで著者の死についてのルポなんだと考えればいい。死を日常から隠し、生き残った人間の都合で葬儀をビジネス化している日本のしきたりとちがって、生身の人間の、ただそれだけの死がそこにある。そうやって死と対話することが、ゲームで体験する死とか、教室でわかってない人にわからないまま教え込まれる死なんかじゃなく、ほんものの自分の死や、家族の死や、仲間の死を語ることになるんだろうね。どうせ一回迎える死なんだから人生の一コマに過ぎないとも言えるし、だからすごく大切だとも言える、そんなところから死について考えてみるとそのうちやってくる自分の死が楽しみになるかもよ。
 おおっ、忘れてた。特別サービスで著者とダライ・ラマとの死についての対談も載っている。こいつはお得だ。


★★★★ 人権読本とかで「いのちの大切さ」をやる前におのれの死生観をみがいておくことは教師としての責任じゃん。

レビュー投稿日
2010年4月3日
読了日
2010年4月3日
本棚登録日
2010年4月3日
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