縄文の思考 (ちくま新書 713)

著者 :
  • 筑摩書房 (2008年4月7日発売)
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 一か所に定住することで、身体を動かすことが大幅に減った。つまり、朝目覚めるや直ちに、自分の肉体を維持するためのカロリーを摂取する食物探しにとりかかり、そのことだけにほとんど一日中費やしていた時間にとって代わって、精神を働かす方に時間を振り向けられるようになったのだ。縄文人の知性がいよいよ活発な動きを開始する契機となったのである。(p.58)

 人間意識の高揚は、自らが所属する集団の主体性の確立をさらに促した。自分達が口にする言葉の言い回しやアクセントなどが他の集団と異なる部分のあることを明瞭に認識する。このことは土器の製作に際しても、伝統的な器形や文様あるいは粘土に混合する混和剤の特定や文様の施文うぃ器体の乾き具合をみて案配するタイミングなどの土器作りの流儀の順守に忠実になる。(中略)自分意識とは、他の集団とはっきり区別されるという認識の上に成立するのである。(pp.76-7)

 ヒスイの太珠や勾玉や小玉や、ときには原石を介したやりとり=交易の成立は、ヒスイに対する価値観、ヒスイの力に基づくのである。ヒスイは決して腹の足しになるものではない。だからこそ、そこに価値を付与し、縄文世界で認知されるのは尋常なことではない。企画・演出する凄腕の存在が予想される。誰あろう、ヒスイ原産地を生活舞台とする集団をおいて他になかろう。天晴れな技というべきである。(pp.146-7)

 巨大柱が点を衝いて、すっくと立ち上がること。六本であること。あるいは縄文人の世界観のなかに見られる整数三が向き合ったり、整数三の倍数としての六の効果。そうした要素がこめられた、記念物の面目をたしかにみてとることができる。
しかも、三本向き合って並ぶ方位は、なんと夏至の日の出および冬至の日の入りとあやまたず一致しているのである。その時刻ならば、柱列の間に放射状のダイヤモンドビームが現出するのだ。それを神々しいと言っても良いかもしれぬ。(p.157)

それらの山は、ムラの外に鎮座して、その位置によって、近景となり、中景となり、遠景となりして、独特の風景を創り上げる。人幅の山水画において、そこにある全てが描写されるのではなく、特別な意味を与え、選び抜かれたものだけが表現されるのに似て、縄文人もまた、その他多数を埒外に置き去りにして風景を創るのである。際立った山があれば、風景の中の重鎮とし、他をもって替えることの出来ない独自の風景に仕立ててゆく。したがってめざす山が見当たらないところでは、まずは山を探すことから始めて、ムラや記念物を営む場所を選定したりしたのである。好位置についたムラには、長期間住み続ける。住み続けることで生活環境が悪化すると、ムラを離れなくてはならない、しかし、回復したとみるや直ちに戻ってくる。この繰り返しが、ときには百単位、五百を超える膨大な竪穴住居の数を結果として遺したのである。(p.189)

 登山は平坦地を歩くのとはわけが違う。自らの身体を叱咤激励し、吹き出す汗を流れにまかせ、疲れてしびれる足をかばいながら、じりじりと頂上に這いのぼる気力を奮い立たせねばならぬ。まさにこの肉体的試練あってこそ、体力に気がみなぎり、初めて山の霊力との接触を確認できたのだ。これは後世の体験者の修行が、肉体への過酷なほどの自虐的な鍛錬とひきかえに、ようやく求める境地に達することが許されたことに通ずるのである。(p.196)

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感想投稿日 : 2015年11月30日
読了日 : 2015年11月28日
本棚登録日 : 2015年11月28日

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