超・反知性主義入門

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  • 日経BP (2015年9月15日発売)
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 レイシズムの横断幕を擁護している人々は、自分たちが、他者や他民族を「攻撃」をしているとは考えていない。差別をする人間は、邪悪で、残酷で、他人の苦しみを見ることで快感を得るタイプのとんでもない冷血漢だ、と、私も、大筋ではそう思っていた。しかしながら、横断幕を擁護する人たちのタイムラインを見に行って目につくのは、邪悪さよりも、むしろ、被害感情であり、義憤であったりする。つまり、彼らは、「いつもいつも的に攻撃され続けていることに堪忍袋の緒が切れただけで、本当は自分だって、こんなことは言いたくないんだ」ぐらいに思っている。(p.44)

 われわれは、世界を効率的ならしめるためにこの世に生まれたわけではないし、社会的な生産量を極大化するために活きているのでもない。順番が逆だ。むしろ、そもそもバラつきのある個々人であるわれら人間が、それぞれに違った方法と条件で、個々の快適な時間を過ごすために、社会が設計されている…というふうに考えるのが本当のはずなのだ。(p.156)

 大学というのは、そこに通ったことを生涯思い出しながら暮らす人間が、その人生を幸福に生きて行くための方法を見つけ出す場所だ。きれいごとだと言う人もいるだろう。が、われわれは、「夢」や「希望」や「きれいごと」」のためにカネを支払っている。なにも、売られて行くためにワゴンに乗りに行くわけではない。(p.165)

 勇気は、必ず一定量の蛮勇を含んでいる。そういう意味で、蛮勇だから有機ではないという言い方は不当だと思う。お国が、国民よ臆病者たれというのなら話を聞かないでもないが、蛮勇を排して勇気を持てという言い方には、耳を傾ける気持ちになれない。
その言葉は、私の耳には、「国のために死ぬのが勇気で、自分のために死ぬのは蛮勇だ」というふうに聞こえる。私は、自分のために死ぬ所存だ。(p.195)

ヒマラヤで登山隊のポーター(荷物運び)をつとめるシェルパ族は、休憩を取る時、「速く歩き過ぎると魂がついてこれないから」という言い訳をするのだそうだ。(p.237)

海外旅行中にたった2号読まなかっただけで、10年も定期購読してきた漫画雑誌がたいして面白くもない紙束であったことに気づいてしまうみたいに、日常性(あるいは習慣)からの離脱は、人を別人に変えてしまう。
東日本大震災は、そういう意味で、突然の入院とよく似た体験だったのかもしれない。
震災以来、私たちは、それまで深く考えることなく受け容れていた日常の様々な事柄について、ひとつずつ考え直さねばならなくなった。
それは、一方において貴重な経験である反面、とてもキツい日常の再構築でもある。(pp.259-60)

(森本)禁酒も信仰もそうだけど、頭の中で考える青年期に出会ったものって、実はあまり信用できないことが多いね。自分が入信して実践してきた積み重ねの結果として、無意識に行動できるようになったときに、「ああ、こういうことか」と、初めて信用できるものになる。僕の言葉では「ハビット」というんですけど。
(中略)習慣というのは生まれつきではなくて、後から手に入れるものなんだけど、でも身に付くんです。そうすると、それが第二の天性、第二の自然になるわけ。持って生まれたものじゃないんだけど、でも身に付いて、それが自分にとって自然なことになる。繰り返し反復することでそうなる。実はこれはアリストテレス以来の理解で、習慣っていうのは可能性と現実性の間にある存在論のレベルなの。日本国憲法だって、日本人が持って生まれたものじゃないかもしれないが、60年間繰り返し使っていて、僕らのハビットになっているんですよ。第二の天性になっている。身体的な存在論なの。それが僕は大事だと思うんですよね。(pp.296-7)

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感想投稿日 : 2015年10月4日
読了日 : 2015年10月4日
本棚登録日 : 2015年10月4日

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