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  <title>こういちろうさんの本棚</title> 
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  <title>僕のフォーカシング=カウンセリング</title> 
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  <dc:date>2010-02-14T13:37:50+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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  <title>W氏との対話―フロイトの一患者の生涯</title> 
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<p>　かのフロイトの「狼男」症例の人物が87歳から死に至るまでの数年間のインタビューなんだけど、読後感は、「狼男」って、当時の青年貴族の価値観の世界からすればあまりにありふれた神経症者の「筈だった」という思い。

　実は驚くほどに「アンチ・センセーショナル（？）」な内容といいますか。

　いくら若い頃の記憶が薄れている可能性を指し引いても、少なくとも狼男のかの有名な「夢の内容」はともかく、抑圧されていたという「原光景」体験に関しては本人がフロイトに全然語ってもいないことというのは本当そうであるように感じた。フロイトに出会う以前の彼の幼少期からの様々な強迫的儀式も現実より誇張されてフロイトの症例では書かれているのではないか？　

　事例研究というものがどれくらい治療者側による勝手な「物語化」の押し付けに容易に成り得るのか、そして、「フロイトの成功事例」という「標本」を「ともかく生きながらえさせる」ことしか周囲の精神分析家が考えていなくて、その後の彼が直面しづづける女性関係の「反復強迫」的な苦悩（まさにここにこそ、彼の「強迫性」の核心は温存されている）に、結局誰も「あと半歩踏み込んで」つきあうことはしないままだったのではないかということ。

　ラストの方でオフォルツァーが狼男に語り得た一言(p,266上段）は、やっと本当の「ヒット」だったとは思います。

　私は、狼男を故・小比木先生のように「境界例」と言い切るにのにも躊躇を感じる。仮にそう言えたとしても「医原性の」擬似境界例に過ぎないと。本当は相当シンプルな思春期神経症の範囲で納め得た事例ではないかと。

　知的だが自死に至った姉へのシスター・コンプレックスと、十代早期の使用人の若い女性たちからの性的誘惑（結局は売春に等しい小遣い稼ぎ？）、そして本人がどういうわけか女性にもてたことと当時の貴族たちの男尊女卑の価値観（女性の立場にたてば彼はたしかに何とも冷たくて優柔不断な男だったことだろう）、実はほとんどこれだけで彼の運命の歯車は空転していたのだとも思う。</p>]]>
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  <dc:date>2010-02-11T19:05:16+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4535983143"> 
  <title>激励禁忌神話の終焉</title> 
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  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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  <title>折れそうな心の鍛え方 (幻冬舎新書)</title> 
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  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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  <title>八日目の蝉</title> 
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  <dc:date>2010-01-23T13:45:40+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>小説</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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  <title>マーラー 交響曲のすべて</title> 
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  <dc:date>2010-01-15T13:22:28+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>音楽</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4772406603"> 
  <title>いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法</title> 
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<p>　エルフィー・ヒンターコフは、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たちについて考察した「夜と霧」で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメリカンについてのフィールドワークに打ち込み、更にフォーカシング技法の祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして活躍中の方である。

　厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する）の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。

　前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかったという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。
　
　ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。

　スピリチュアリティという言葉を安易に使うと、日本のカウンセリングの世界では、オーソドックスな専門家からはそれだけで少し安っぽく見られる傾向がある（一般の方からすると驚かれるかもしれないが、「高尚」にはみてもらえない）。しかし、欧米では、クライエントに、性に関する質問を面接の中でしても、日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくないが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。そして、カウンセラー個人の信仰と全く相容れないことをクライエントさんが語り始めた時の葛藤は、日本人には全く想像もつかないくらいに根が深いらしい。

　それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。そして、「重要なのは、イエスと私がどんな関係にあるかということなんです」「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験したことがないんです」「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」などということがカウンセリングで真摯な悩みとして語られることも少なくないらしい。

　こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness（宗教性）"と"spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する）を区別することを提案する。"religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent　常識的・合理的な判断を越えた）」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。

　このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。

　そのような、日常のすぐそばに、誰にでもある、ささやかなこころの癒しの世界への、フォーカシング技法を媒介とした手引きとして読む時、本書は身近な本になるであろう。</p>]]>
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  <dc:date>2009-12-27T18:27:01+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4772411038"> 
  <title>現実に介入しつつ心に関わる―多面的援助アプローチと臨床の知恵</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/4772411038</link> 
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<p>　私が若い頃から声をかけてくださり、一緒に飲ませていただき、九州に戻ってからも色々相談に乗ってくださった、私にとっての、あまりにも頼もしい、「現場心理臨床の兄貴」、それが、現九州大学大学院教授の田嶌誠一先生である。

****

　この田嶌先生がカウンセラーになるまでの経歴は、田嶌先生にある程度身近に接した人の間ではすでに「田嶌伝説」として知れ渡っているであろうから、ここで公開しても何も差し支えはあるまい。

　福岡県大牟田市の三池の炭住街の生まれ。十代はそこそこ不良でした（＾＾）。パチプロを目指したこともあるそうです。しかし、高校時代のある時、突如心機一転して猛勉強、九大を目指します。

　そして、催眠療法や臨床動作法であまりにも著名(臨床心理士登録番号「１」）な、日本を代表する心理療法家、成瀬悟策先生門下の逸材として、最初は病院心理臨床で、重篤な患者さんとの面接のキャリアを積む中で、深い変化を静かに引きおこししつつも、患者さんの自我を危機に至らせない「安全弁」を持つ、独創的な心理療法、「壷イメージ療法」を開発。

　続いて九大で大学学生相談を担当、深刻な精神疾患、暴力や引き籠もりの学生との関係作りに、他の誰にもまねができない独創的かつ積極的なアプローチで成果を重ねます。

　引き続き、文部省のスクールカウンセラー事業の草創期に、もっとも荒れた中学校を担当、教師、家族、生徒たち全体を巻き込む「ネットワーク型アプローチ」を導入して、学校の空気そのものを一変させ、少年院送りを繰り返す水準の不良生徒たちからも卒業時には崇敬を集めるという、神がかりな活躍をなさいました。

　そして、現在取り込んでおられるのが、多くの場合、家族からの虐待からら保護された子供たちが収容される、児童養護施設内部で陰惨に繰り広がられてきた、「施設内暴力」を一掃するシステムをコーディネートすることなのです。

　日本の心理臨床の生んだ、空前の「現場で行動する臨床心理士」、それが田嶌誠一先生です。

*****

　講演記録を元に、新たに書き下ろされた、児童施設内の暴力問題への対応についてを中心主題とする、本書冒頭の「総論に代えて　現実に介入しつつ、心に関わる」以外の論考は、その大半について、先生が最初に学会発表されたその場に臨席もしたし、学会誌でお読みしている。

　冒頭の章の概要そのものも、先述の記事で書いたように、先生に直接お会いする機会を持たせていただいた時にうかがっている。

　今回、実際の著作の内容と照合しても、その内容の最低限のイントロダクションの意味は、すでにあると思えたので、ご参照下されば幸いである。

*****

　そういう意味で、「ライブ田嶌」先生からすでにうかがった内容のほうが私の中で大きなインパクトを占め過ぎているために、どうもこのご著書の内容を改めて客観的に概説するとなると、私は心境的にちょっと重荷になりすぎる。

　ただ、申し上げたいのは、先述の、今回書き下ろされた、冒頭の「総論に代えて」の持つ、凄まじいまでのインパクトと、そこに示された先生の決然たる問題提起だけは、是非、多くのカウンセラーの皆様に、是非、実際に目を通していただきたい。

　・・・・こんなカウンセラーが、この世にいるのである。

*****

　いくつか、この「はじがき」と最初の章から、田嶌先生の言葉を、アフォリズム的に拾い上げてご紹介することとします：

=======以下引用========

　「私は、当事者のニーズの応えること、そしてできればもっとも切実なニーズに応えることを心がけてきたつもりである」(p.5)

　「現場のニーズを、『汲み取る、引き出す、応える』ためには、心理臨床家が従来のようにもっぱら心の内面や深層に関わるという姿勢（それも必要ですが）のみでは不十分で、『現実に介入しつつ心に関わる』とそれに基づく他面的アプローチが必要となります。これは、心理臨床が生き残れるかどうか、換言すれば心理臨床が社会に貢献できるかどうかに関わる重要なことだと私は考えています」(p.12)

　「しばしば間違えるのは、学校の先生と保護者とが『原因は何でしょう』と話し合うことです（中略）。すると、お互い内心は『こいつだな』と思っているわけです。そうすると、連携がちっともうまくいきません。
　それよりも、この子が元気になるために学校に何ができるか、保護者に何ができるか、それを一緒に話し合うというスタンスでいきますと、割合、無難な対応ができます。（中略）
　保護者の力、担任の先生の力、生徒たちの力、そして相談に乗った私と、いろいろな人がネットワークを活用してその子の援助をしていくという形になります。これが『ネットワーク活用型援助』です。心の内面だけではなく、現実に介入していくわけですね」(pp.18-9)

　「[まずは]いじめという現実がなくならないといけない。その解決は、いじめが沈静化する必要がある。完全な解決かどうかはともかく、とりあえずいじめがなくなる[ように、その学校内のネットワーク・システムに介入する]。その後、本人の心を扱うという形をとる。これが『現実に介入しつつ、心に関わる』ということの例のひとつですね」(p.19)

　「このように、いじめなどがそうですが、必ずしも本人が変わるべきではなく、周囲が変わるべきである場合もあると考えるようになりました(中略）。今では問題は、『主体と環境の関係』だというふうに言っています。主体と環境、つまり、内的環境と外的環境があって、その心、内面の問題は内的環境との関わりの問題なのだろうと考えるようになりました」(pp.19-20)

　「大事なのは、『個人の心理や病理』だけではなく[学校や地域の]『ネットワークの見立て』どということを強調しているわけです」(p.20)

　「[施設内暴力]に加担した加害児のうちのひとりは、1,2年前まではそのボスからおしっこを飲まされたり、散々いたぶられています。つまり、かつての被害児が加害児童になっているわけです」(p.25)

　「施設では多くの場合、[マズローの言う]『安全欲求』が満たされていないわけです。これは成長の基盤です。だから[まずは、施設内での]暴力をなくさないといけない。しかしこの理屈が意外と臨床心理の人に通りが悪かったんです。つまり、こどもたちが暴力を振るうのは、心の傷があって、それをケアすることが大事なんだという発想が強すぎて、理解が進まないんですね。心のケアは大事だけど、その前に、暴力を使わないで暴力をきちんと抑えるということが必要です」(p.27)

　「それらの問題行動は、過去の虐待や苛酷な教育環境への反応として、反応性愛着障害や発達障害の兆候として理解されてきたように思います。(中略）
　しかし、それらの問題行動は、子供間暴力(児童間暴力）や職員からの暴力等の、その子が現在[施設内で]置かれている状況への反応である可能性があるということになります。(中略）入所前に受けた虐待が主なる原因ではない」(p.27)

　「『愛着』や『トラウマ』関係のどの本でも、安心・安全が重要であると述べられていますが、その安心・安全を施設で実現していくことがいかに大変なことか、どうやって実現していったらいいかということが、まったくといっていいいほど言及されていないのです」(p.37)

　「[施設内暴力という問題それ自体に対する]専門家によるネグレクト、大人によるネグレクト、そして社会によるネグレクト」(p.38)

　「私は臨床家ですから、『告発者』としてではなく、外部から援助者として現場にうまく入らないとならない。そのためには、大変なエネルギーと技術が必要です。しばしば、「志は高く、腰は低く」という姿勢が必要です。そして問題を発見して、解決システムを模索して考案していくという順序になります(p.39)

======引用終わり=====

　田嶌先生が全国の児童養護施設に提案し続けている「安全委員会」システムとはどのようなものかについては、ネットでの情報などでは済ませずに、是非、実際に本書をお読み下さい！！

　なお、こうした被虐待児を一箇所に百名以上収容する施設など、欧米には存在しないとのこと。だから、解決策には輸入できるモデルなんてないそうです。

　「里親制度」・・・・欧米は基本的にそっちなんですね。

　日本にも里親制度はありますが、時折、里親自体からの子供への陰惨な暴力がマスコミ記事になることはたいへん痛ましいことです。里親と子供への、地域の個別の公的サポート(監視）体制が不十分すぎるんですよね。</p>]]>
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  <dc:date>2009-12-16T03:39:56+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4772400842"> 
  <title>治療論からみた退行</title> 
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<p>　ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリントは、日本ではもっぱら故・土井建郎氏の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。
　しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題："Basic Fault"）である。
　今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。
　山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。
　・・・・ごもっともな指摘である。
　「基底欠損(Basic　Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。
　確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン（「青年期境界例の治療」)とも異なる、独自の視点を持っている。
　バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。
　確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい。だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると。バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。
　そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアとフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。
　クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。
　広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ (introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者＝「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。
　しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。
　バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。
　バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係＝他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか？　「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。
　我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう前-対象とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。
　つまり、世界の諸事象と「調和的＝相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないというう絡を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。
　そもそも「空気」はなければ人間は窒息することなど普段は忘れているではないか？
　「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ？」と。
　これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。
　しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。

　さて、プレ・エディプス期において問題があった人＝"Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。それが「オクノフィリア」と読ばれる現象である。
　オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する（「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景）。
　その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。
　ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。
　その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地（土）・水・火・風（空気）」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。
　これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。
　典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。
　言わば、キャプテン翼の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が（そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が）、まるで自分に『協力してくれている』このような錯覚の世界にある。
　彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。
　一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。
　このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。
　フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。

　バリントは、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて次のように述べている。
　治療者には、患者との間でオクノフォリックな関係とフィロバティックな関係を両極端まで往復する心構えが必要であり、解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。そのためには分析者は決して破壊されないことを示し続けねばならない。
　分析者が以上の条件を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、「新規蒔きなおし(new beginning)を自ずから始める。
　すなわち、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること、世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念と関連した悼みである。
　それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である・・・・と。</p>]]>
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  <dc:date>2009-11-27T16:38:31+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4022506644"> 
  <title>言葉で治療する</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/4022506644</link> 
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<a href="http://booklog.jp/asin/4022506644"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51vBF8oF%2B0L._SL160_.jpg" /></a>
<p>　精神科医の中井久夫氏によると、精神分析医のバリントがウィニコットのどちらか（失念したまま、典拠を見つけ出せないままでいる）が、「医者という名の薬」ということを言っているという。

　中井氏ご自身、著作集第5巻「病者と社会」収録の、「心に働くくすりは信頼関係あってこそ効く」という短い論考(pp.163-8)で、

「医師への信頼関係があれば少量で効くし、量が増えない。不安を抑えるくすりを不安な状況で飲むのが得策でないのはわかっていただけよう。薬への信頼は、究極には医師への信頼である」

「私は、患者が苦情をいうことが医師に対する最大の協力であると思っている」

「（患者に）苦情を言ってもらうことで次第に正しい処方に到達するものである」

と書いておられる。

　これは精神科の薬の処方に限るまい。医師の前では「優等生」にしかなれなくなり、実際にはたいへんだったり不安があってもそれを語れない患者さんは実に多い。医者の側に、苦情をいわれても嫌な顔ひとつしないだけの応対の力があっても、医師と患者というのは、自分の命や身体症状を公式に預け得る唯一の「絶対的権威」であり、「対等」ではあり得ない構造的な関係性が布置されているのだ。

　そしてそれは、精神科の薬物療法ばかりではなく、例えば救急医療やがん医療において、外科的処置が必要な場合ですら共通の問題といえるはずである。

*****

　ここで紹介する、「言葉で治療する」という本の著者、鎌田實氏は、救急医療の現場に始まり、がん病棟、救急医療、小児科をはじめとするさまざまな現場で、医師と患者の間のコミュニケーション不全がどれだけ大きな問題を引き起こしているかに現実に関与し続けて来られたお医者様である。

　がん患者ご本人やそのご家族の実に30-40%近くがうつ状態、ないし、本格的なうつ病に陥っていることを著者は指摘する（統計によってはもっと高い数値を指摘するリサーチもあるという）。

　がん医療に力を入れているといわれる病院、ホスピスなど終末期医療に力を入れていると喧伝している病院ですら、医者の不用意な言葉が単に患者さんを傷つけるのみならず、両者のディスコミュニケーションが、症状の変化に気づくタイミングを逸してしまうことになり、早過ぎる死に至らしめていることが疑念されるケースすら稀れではないらしい。

　その一方、万策を尽くしても患者を救い得なかった医者に対して、患者が感謝の言葉を捧げるような関係性が成立している場合も確かにあるのである。

　まだ、医療チーム内部でのコミュニケーション不足が、患者さんとの信頼関係をいかに損なうのかについてもとりあげられている。

******

　こうした状況が生じたひとつの背景には、医師不足の問題に加え、小泉政権が推し進めた社会保障費の抑制の中で、医師に限らずコメディカルなスタッフ全体が疲弊し、患者さんに丁寧な応対をする余裕を喪失させたことも大きいと著者は論じる。

　「インフォームド・コンセント」の重要性は、歯科医すら含む形で医療全体に浸透してきたはずではないかといわれるかもしれない。だが、インフォームド・コンセントの広まりを支えて来たのは、リアリスティックにいえば、医療訴訟に対する医療側の自己防衛という側面があり、（これは私の考えだが）開業医が多い地域では、経営的「生き残り」のために悪評を立てられたくないという側面も後押ししたのではなかろうか。

　いわゆるクレイマーやモンスターペイシェント（ペアレント、ファミリー）の問題については、鎌田氏は、

「医療現場を萎縮させ、今日の医療機器を招く一因になっていることもたしかだ。いまだにモンスターペイシェントはいることはいるが、潮の目が変わったように思う」(p.36)

と書いておられる。

******

　実はまで読み始めて3分の1だが、すでに日本人の死亡率第1位になったがん医療、そして高齢化社会で更に必要際が高まるであろう終末期医療の現場が、現実にはこれほどまでにコミュニケーション上の課題山積であることのついては、次々と登場する実例を読んでいると呆然とした思いに駆られる。

　1998年の自殺者が3万人を越えた段階で、がんの次は自殺予防対策だという声があがりはじめて久しい。

　しかし、うつ状態（ないし気分障害）になって入院したり通院歴があるクライエントさんがほとんどを占める私の開業カウンセリングの現場で痛感するのは、単純にお医者様を悪者にしてしまうつもりは毛頭ない（一日に50人もの患者さんの診察をするなど、欧米では考えられない状況らしい）が、患者さんとお医者様の間でのコミュニケーションの行き違いが、症状の遷延化と、そして、「こころの支えとしての医者への信頼」を持てないまま、あちこちの病院を何年も転々としてきた軌跡である。

　この本は、「精神科医療」についての本でも「カウンセリング」についての本でもない。しかし、底に流れるマインドは、お医者様やカウンセラーに限らず、すべての援助的専門家が自分の「現場」を振り返る上で、直面するしかない課題に気づかせてくれそうだ。
　</p>]]>
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  <dc:date>2009-11-25T20:26:03+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4796671730"> 
  <title>NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/4796671730</link> 
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<![CDATA[
<a href="http://booklog.jp/asin/4796671730"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41ZObmPdI9L._SL160_.jpg" /></a>
<p>　 私が自身のメインサイトの方で延々と連載記事を組み、私のサイトが一気にうつサイト化するきっかけとなった、画期的な番組、「NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる」が書籍化されました。

　類書を完全に越えたところまで、日本の現在のうつ治療の問題点と、その背後にある医師養成制度、保険制度上の問題、現状ですでになされている先進的な試みを紹介、日本のうつ治療の「光」と「影」を余すところなく描き切れています。

　番組をご覧になった方でも、改めてお読みになる価値があると思いますよ（密度が3倍ぐらいアップした感じ）。

　更には、もはや単にうつの問題を越え、精神医療とカウンセリング界の間の国家資格化をめぐってのぎくしゃくした現実にも、率直に切り込んでいる。

　ともかく、膨大で多方面な取材と、現状までの道のりをここまで生々しく掲載することに同意された（元）患者の皆様に感謝するしかない。 

******

　私は、この番組を大きなきっかけとして、気分障害全般にわたる薬物療法について、このわずか半年あまりの間に、臨床心理士の分際で、むやみやたらと勉強させていただきましたし。

　実は、うつ病と気分障害の誤診と、薬物投与の問題点のおかげで、いつまでも苦しんでいる人たちがいる可能性に気づかされたのは、この番組の放送直前の時期のことでした。

　あるクライエントさんとお会いしている時に、調子がよくなると通院しなくなり、調子が悪くなると別の病院で通院再開されるパターンを数年にもわたって繰り返しておられることに気がつき、投薬歴をすべて訊き出して、カウンセリングルームに常備していた「今日の治療薬 ―解説と便覧」首っ引きで点検していったのですね。

　すると、処方されてきたのは、三環系にしてもSSRIにしても、ともかく抗うつ薬ばかりが中心。

　私には、そのクライエントさんには、まさに双極2型に相当する周期的な気分変動があるために、鬱が治ったと感じた時点で治療中断を繰り返す現象が生じているかに思えもしたので、リーマス、デパケン等の気分スタビライザの処方がなされたことがあるかどうかを確認したかったのですが、一番最近の病院でやっとごく少量のリーマスの処方がなされたばかりでした。しかも、リーマスの処方の際に並行して不可欠なはずの「血中濃度検査」を受けた形跡がないのです。

　私はしっかりとこうした点を紹介状にしたため、その地域の信頼できそうな精神科病院に行くことを勧めることになりました。

　そうしたできごとからさほどたたないうちにこの番組に接したものですから、インパクトはたいへんに強烈でした。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2009-11-12T12:43:27+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4585052844"> 
  <title>うつ病新時代―双極2型障害という病 (精神科医からのメッセージ)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/4585052844</link> 
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<p>
  	
5つ星のうち 5.0 現代の「すべての」うつ病患者さんに向けて書かれた本, 2009/9/14
By 	こういちろう "こういちろう" (福岡県久留米市) - レビューをすべて見る
	
　今日、鬱は昔よりも「軽症化」しつつあると言われているのに、実際には、昔の鬱病の患者さんの方が、きちんとした服薬や休養生活(場合によっては入院）を経れば、長くても数ヶ月以内に社会復帰できる人がずっと多かったということを、さまざまな精神科医の先生が指摘している。

　鬱になる人の病態のマジョリティー(多数派）自体が、時代と共に変質してきている可能性を多くの専門家が認め、「新型うつ病」「非定型うつ病」などという言葉が繰り返しマスコミに載るにも関わらず、古典的な「メランコリー型」うつ病ではない人たち（本書で取り上げられている「双極性2型」以外にも、「気分変調性障害」「双極スペクトラム障害」などと診断される方たちを含む）に対する少なからぬ医者の取り上げ方は、どこかしら「近頃の若い者は・・・・」的なノリで、そうした人たちの「性格の問題」という言い方が安易に振り回される傾向があるように思えてならない。

　しかし、それは実は根本的な認識不足なのではないか？

　結局、医者の側が時代の変遷についていけていないことの「逃げ口上」ではないのか？

　そうした問題提起をする上で、この著作以上に強力な著作は、刊行3年めにして、まだ現れていないように思われてきた。

　古典的な「メランコリー型」うつ病は、実は第2次大戦敗戦国である日本と「西ドイツ（！）」において、戦後の復興を経て高度経済成長期に入るという、固有の経済発展様式を取らざるをえなかったために、結果的に、1970年代まで、他の欧米諸国よりも「遅延されて」残存した、実は「オールド・タイプ」のうつ病のあり方であるに過ぎず、現在ではこれらの国でも、主として中年以降の世代にのみ残存している病態であるに過ぎないのではないか？

　・・・著者ははっきりそこまで言い切ってしまっている。

　（古典的）鬱病者における病前性格としての「メランコリー親和性」ということをはっきりと打ち出したのは、ドイツのテレンバッハという精神病理学者である。ところが、今日では臨床家の間で基本教養の一部というべきこのことをテレンバッハが著作「メランコリー」ではっきりと書いたのは、何と1961年という、思いもよらないくらいに最近の（・・・・などと、1960年生まれの私だと書いてしまう）ことなのである！！

　もっとも、1961年といえば、西ドイツも日本も、西側陣営の中で、まさに目を見張る勢いで高度経済成長していた渦中に他ならないではないか！！

　　「この時代の」「西ドイツにおける」精神科現場臨床におけるうつ病患者の診療の治療の膨大な蓄積の中で、テレンバッハが提唱し、ドイツで、日本で、そして欧米で幅広く受容されるに至ったのが、「メランコリー親和性格」仮説なのである。

　この本は、単に、DSMという診断基準が指し示す、狭い意味での「双極性2型」障害についての著作などでは決してない。

　恐らく、通常のうつ状態と診断されている患者さんたちの多くが読んでも、深く共感する内容に満ち溢れているはずだ。

　実はその点にこそ、この著作の只ならぬ奥の深さがあるのである。 
</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2009-09-18T11:39:13+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4480064656"> 
  <title>双極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/4480064656</link> 
  <description>
<![CDATA[
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<p>　この本の対象の中心が、あくまでも旧来の「躁うつ病」、すなわち「双極性障害1型」に焦点を絞った本であるという基本前提に立つ限り、本書のまことに平明な文体は、入門書としては必要にして十分な域にあると私は考える。

　内海健氏の「うつ病新時代―双極2型障害という病 (精神科医からのメッセージ)」と比較してしまうと、深さという点では物足りない人も出てくるかもしれない。しかしそれを言うなら内海氏の本自体が類書に例を見ない域に到達しすぎた本なのである。

　むしろ、本書を特徴付けるのは、次の点であろう。

　まず、本書の後半部分で展開される、世界最先端水準の脳生理学、神経化学、DNAレヴェルでの遺伝子上の実証研究の当事者という、加藤氏の、現場臨床医とは別のもうひとつの顔で描かれている部分が、私には滅法読み応えがあった。

　まだ、パキシルの製造元の会社の、不利な情報隠蔽体質、あるいは幼児期の双極性障害ADHDに関してアメリカで子供に対して安易に薬物療法が施行される傾向の問題点、そしてアメリカでそのことを啓発する運動の先頭に立っていた精神医学者と製薬会社の癒着の問題について詳しく紹介されていることも忘れてはならない。

　なぜ薬物の治験において統計的に有意な差が出ないことが多いのかについて、意外な現実も紹介している（要するに、アメリカでは治験に応じると報酬が払われる。そのお金ほしさに病気のフリをして治験をはじごしてまわり、薬は実際に飲まないまま偽薬であろうとほんとの薬であろうと薬が効いたフリをして報告するいる輩が随分いるらしい。これでは統計上有意な差が出にくくなって当たり前である）。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2009-10-12T15:03:48+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/412003982X"> 
  <title>私のうつノート</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/412003982X</link> 
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<a href="http://booklog.jp/asin/412003982X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/411Pn1q8M5L._SL160_.jpg" /></a>
<p>　苦しいうつ状態を脱して、今度こそ前向きに意欲的に生きようとすればするほど、自分でも自覚できないうちにいつの間にか簡単に「オーバーラン」してしまい、再び燃え尽き、振り返ってみたら、その高揚状態での活動が周囲にいかに無神経で、迷惑をかけていたかに今更のように気がつくという、波打ち際で「砂の城」を築くかのような不毛の繰り返し。「自分で自分のペースが取れない」という行き場のない苦しみの中で、何とかバランスを以前よりうまく取れるように、生活の細々したところまで少しずつチューニングし続ける、あまりにも地味でコツコツとした試行錯誤の過程。自分はもう大きな夢は追えないのか？　かつての活動的な充実した日々はすべて「軽躁」という「病」のなせる業に過ぎなかったのではないかという煩悶。そうした中で、これからの人生を、より「地に足を着けて」歩んで行こうという境地に徐々に近づけていくかどうか？

　それが「双極性障害」を生きるということ。

　恐らく、日本では、この読売新聞の記者さんの生々しい闘病記の新聞連載まで、そもそもそうした「双極性障害を生きる」ということのリアルな現実が、お茶の間に届くということそのものがなかったのではないかと思う。

　ここで描かれる、休職の中で順調な回復軌道に乗ったたかにみえたのに、再び躁傾向を押さえきれなくなり、そうした挙句、再び燃え尽きて欝状態に泥のように沈み込み、絶望の中から小康を得て再出発をしようとすると、またもや簡単に「スイッチが入りすぎて」やり過ぎになるいう、上ったり下ったりの泥沼のような生き様を読んだ時、この病気に苦しむ人たちや、ご家族等の関係者の深い共感を呼び起こし、「同じことで苦しんでいるのは自分（たち）だけではない」という連帯の輪をどれだけ広げたことだろうか。

　「第Ｉ部　体験編」前半の、記者さん自身の体験記、「１．私のうつノート-双極性障害の記録」(記事連載時に、第27回ファイザー医学記事優秀賞受賞）には、ご本人のみみならず、当時奥さんが実はどのような思いをしていたのかも細く触れられている。続く第I部後半「２．うつ病闘病中の同僚記者と」では、当時上司だった方の目からの報告がなされている。「自分たちの同僚に生じてしまった病と、そこから生じてしまった事態」を、その混乱の渦中にありつつも重く受け止め、特集として取り上げ続けた、読売新聞生活情報部の記者たち「共同制作」の、ジャーナリストとしての良心の軌跡としての、迫真の「ルポルタージュ」という視点で、本書の存在意味を眺めてみたらどうだろう？

　新聞掲載時に連載記事を読めなかったけれども、この特集に何らかの情報で関心を抱いていたけれども全体像に触れ得なかった人たちを含めて「まとまった一冊の本」として「通して読める」という形にまとめられたれただけでも存在価値があるのだと思う。

　第II部「情報編」はやや雑多な形になり、双極性障害についても、より体系的な一般向けの類書は他にも出ているかも知れない。だが、この記者さんの手記連載の後、読売新聞が、うつ病に限らず、他紙の水準を超えた良心的なメンタルヘルス・医療関連の特集を展開し続けるひとつの大きなきっかけになった原点も、まさに本書に収録された記事たちの連載にこそ、あったと言えるはずである。

　なお、この記者さんは、当初通常のうつ病と診断され、双極性障害II型に診断変更・投薬変更されるまでに、実に4年間の期間を要している。双極性障害II型の診断が適切な人に、気分安定薬を伴わない、抗うつ薬のみ中心の薬物療法がなされると、その人の躁鬱の波はどんどん極端になっていく場合も少なくないので、本書の体験記の中盤まで描かれているこの記者さんの躁鬱の波の大きさは、[双極性障害II型本来の波]+[当初の4年間の投薬が不適切だったゆえの増幅の強化]という複合的なものであると想定できることに注意して読まねばなるまい。

　つまり、4年間の気分安定剤なしでの薬物療法のおかげで、症状が「こじれた」可能性も考慮せねばならないのである。「双極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」（加藤忠志著）によると、このような形で生じる躁鬱の揺れのことを「物質誘発性気分障害」と呼ぶらしい（p.44。もっとも、「抗うつ剤の投与を中止して4日以上続くような軽躁状態があった場合には、双極性障害と考えた方がいい」とも付記されています）。

　さもないと、本書第Ｉ部のp.69で「かつてのような大きな波はない」と明言される「前の部分」までで描かれたこの記者さんの「睡眠3時間」などの高揚状態での活動のありようは、双極性障害「II型」とだけいうには、「躁状態」が激しすぎる状態にあったのではないかとすら戸惑う人すら少なくないかもしれない。(本書p.44に、それが「抗うつ剤」の処方のせいもある可能性を当時すでに医師に示唆されていたことが書かれている）。

　「II型」と診断される人でも、繰り返す鬱の波から脱した「一番いい」状態の時期ですら、ほとんどの場面で、おだやかで安定した状態(本書 p.88で上司の方がお書きのように、本人からすると「少し落ち込み、やや調子が悪い」と体験される）」でいられることが多いの人もたくさんいるのである。これは診断されるお医者さんによって意見が分かれるのかもしれないが、敢えて注意を喚起したい。</p>]]>
  </description> 
  <dc:date>2009-09-18T13:24:56+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
</item> 
<item rdf:about="http://booklog.jp/users/kasega/archives/4779004535"> 
  <title>なぜうつ病の人が増えたのか</title> 
  <link>http://booklog.jp/users/kasega/archives/4779004535</link> 
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<![CDATA[
<a href="http://booklog.jp/asin/4779004535"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51NxgxD7WWL._SL160_.jpg" /></a>
<p>　この本を書くにあたっての冨高氏が思いを語った、終わりの方の部分から引用したい。
「『SSRI発売後、日本全体でうつ病患者が急増した』と説明されても、気分を害す患者の方が多いのではないかと思う。うつ病で苦しんでいるのに、大局的な一般論を説明されると、不快に感じる人もいると思う」(p.240)
個々の製薬会社の個々の薬に関して、治験のあり方、副作用の問題、プロモーションのあり方が問題にされてしかるべきだけれども、十把ひとからげな医療不信を煽る発言は、患者を不安に陥れるばかりで危険でもある。
この本で書かれている問題は、ネット界では結構知られていても、この種の本がどういうわけか日本ではあまり出版されて来なかった中であえて出版に踏み切ったこと（しかも冨高氏のように、非常に冷静でつつしみ深い表現をなさるお医者様がお書きになったこと）に十分な意味はあると思います。
　・・・・ですが、正直に言って、あの新聞の書評だけで、「おまえは大した鬱じゃない、働け」やら、「薬を飲むのはやめなさい」的な家族争議が日本のどれだけの家庭で発生し、うつの人の心を揺らし、混乱させたか容易に想像がつく。
そのような事態は、著者の冨高氏自身は全く望まなかった事態の筈である。
冨高氏も、純粋に薬の効き目としてみた場合については、旧来の抗うつ薬よりSSRIの方が常に安全で副作用が少ないとはいえないことを、慎重に論じているに過ぎないのである。　何しろ、冨高氏自身は、SSRIが自殺率が高いという、よく言われがちなことについては、ご自身の臨床経験からはむしろ懐疑的なくらいである。
　更にこの本の長所を述べると、産業医である冨高氏は、「製薬会社の側の」広報活動のあり方と、「企業内での、雇用者に対する」うつ病についてのメンタルヘルス的な広報・支援活動の問題を完全に切り離して論じています。
そして、何より効果があるのは、「残業ルールを厳密に守る」ことであると、具体的に断言しています。
　更に、企業が安易にEAP（メンタルヘルス関連の活動の外注）に依存することの弊害を説き、京セラ本社で、わずか１名の専属産業医師と看護師１名で繰り広げた、緻密そのものの休職・復職支援活動の結果、2年間で「再休職した人ゼロ」という驚異的な実績を残したことを紹介しています (pp.222-3)。
　　私は、この本を、お読みになるとすれば、冷静に細やかに読解し、安易にこの本を振りかざして、「重たくない」とされるうつ病の人を軽視することに繋がらないことを祈ります。

　何と冨高氏自身も、本書の中ではっきり次のように書いておられる。

「会社員のうつ病は、統合失調症や重度うつ病より診断が楽ということは決してない」(p.28)</p>]]>
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  <dc:date>2009-10-28T18:02:52+09:00</dc:date> 
  <dc:subject>精神医学・心理療法</dc:subject> 
  <dc:creator>こういちろう</dc:creator> 
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