私は「時代」に生まれてきたんだろうか、「私」として生まれてきたんたろうか。時代がこうだったから私はこうなったと言ってしまうのは、ぼくにとっては風景なんですね。それは絶対に言いたくない。
「風景を見た」と思ってしまったら、時代論や世代論のワナにはまると思っていた。
「ぼくは管理されて自由である」とか「私は私という例題のために生きてます」といったことを書いたんですが、たくさんの制約やたくさんの管理を同時に受けているからこそ、私たちはおもしろく動くことができるし、考えることができる。何の制約も受けていないものは存在すらもしていない。
ぼくがなぜこの時代に生まれてきたのかということも制約です…運命だとか偶然だとかいうのではなく、自分でそのことの意味を自分で決めつけてやらないと、命というものの意味が、わからなくなるんじないですか。
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- 感想投稿日 : 2016年7月25日
- 読了日 : 2016年7月25日
- 本棚登録日 : 2016年7月17日
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