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  <title>khoritaの本棚</title> 
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  <title>吾輩は猫である (新潮文庫)</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41WC2NprUaL._SL160_.jpg" /><p>　夏目漱石の１冊だけについて語るとき、中々『吾輩は猫である』を選ぶことは少ないだろう。だからこそこれを挙げる。

　漱石は小さな小説をいくつか固めて大きな小説にしたいと常に考えていた。例えば『行人』の最後は兄の友人の長い手紙であるし、『こころ』の下は先生の手紙であり、この手紙自体が一つの完結した小説であることは誰もが知っている。

　この手法は『猫』で既に用いられている。主人公は猫であり猫の視点によって語られているが、話題の中心は先生にあり、先生を訪ねる友人たちの挿話がこの小説を形作っている。そのため、読後は幾つかの短編小説を読んだような感があり、割と長い小説でありながらすっきりとする。

　後年の漱石は苦悶して闘う主人公を描いてきた。基より漱石自体がそうした主体であったが、本来の漱石は『猫』のような小説を書いていたかったのではなかろうか。少なくともこういった小説を書き続けていられれば幸せぐらいに思っていたかもしれない。</p>]]>
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  <dc:date>2010-03-22T15:29:15+09:00</dc:date> 
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  <title>放送禁止歌 (知恵の森文庫)</title> 
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<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51RQN6RKC4L._SL160_.jpg" /><p>　森達也は常にクサいところが難点ではあるが、氏の思想やこの本で書かれていることは真っ当である。

　この本で終始語られることは、差別から目を背けることで差別を助長するというパラドクスである。現実には、古くからのマスメディアも、近年のネットも、この構造を脱していない。結局、差別問題を理解しようという気がなく、それでいて差別反対のポーズだけをとる態度がむしろ差別の温床になっていることに気付いている、気付いて行動している人は少ない。

　マスメディアの文化を担う気概は高い。そこからくるエピソードは興味深いものであり、あまりにも馬鹿馬鹿しいことに気付く。「スイカ割り企画は盲人に対して失礼」なんてものはその最たるものである。しかし、私たち自身の感覚はそれに近いのではないだろうか。ここで語られる話は笑い話であり笑えない。</p>]]>
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  <dc:date>2010-03-22T15:16:24+09:00</dc:date> 
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  <title>死神の精度 (文春文庫)</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51dDxuzMsaL._SL160_.jpg" /><p>　伊坂幸太郎の得意とする構成は、短編の連作か、平行世界で出来た長編であり、本作は前者である。

　かなり設定が具体かつ詳細に決まっているため、どのエピソードもぼんやりと見れば相当に似通っている。ともすれば舞台とアイデアを入れ替えているだけとも言える。それでいて読者を飽きさせないのは、ひとえに氏のエンターティナーとしての実力からくるものであろう。

　特徴的なのは、主人公の死神とその他の人物に、常に一定の距離感が保たれていることである。しかも死神の登場人物に対する態度が常に冷めたものであることが挙げられる。これは丁度読者と物語の間の距離と同じく、死神は読者と物語の中点の役割を果たしている。そのため、死神が登場人物に感情移入したり、不測自体に際して正気が揺れる時に、死神と登場人物の距離が縮まり、それによって読者と物語の距離が縮まる、すなわち読者を物語に引き付けることに成功している。</p>]]>
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  <dc:date>2010-03-16T13:03:25+09:00</dc:date> 
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  <dc:creator>khorita</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/khorita/archives/1/4101001448"> 
  <title>夜のくもざる―村上朝日堂短篇小説 (新潮文庫)</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51GAA1Y78XL._SL160_.jpg" /><p>　村上春樹の短編が難解であるとか不条理であるとか言われる中、この短編集は正にそのエッセンスのように難解あるいは不条理な短編で構成されている。

　氏の短編が難解あるいは不条理であるのは、抽象的な概念が抽象的なまま、擬人化するからである。表題作の「夜のくもざる」からしてそうである。より質が悪いのは、それが実際には具体的なものであるはずなのに、一度抽象をくぐり抜けて再び動作動詞を得ていることである。しかも抽象化しつつもおはぎのように具体の面影を漂わせているため余計に目の前で具体的に動いている抽象物に具体物を投射してしまう。

　この手の短編が集まった『夜のくもざる』を読むにあたっては、気楽にしかし真面目に向き合うのが良い。わざわざ回り道してきた主語の面影は片隅に追いやりながらも意識しつつ、あまり深く意味を考えずに筋を追うことで得られるシニカルな重みを感じ取り楽しむことができる。</p>]]>
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  <dc:date>2010-03-16T12:40:17+09:00</dc:date> 
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  <dc:creator>khorita</dc:creator> 
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<item rdf:about="http://booklog.jp/users/khorita/archives/1/4101290385"> 
  <title>顔のない裸体たち (新潮文庫)</title> 
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<![CDATA[
<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/514i1w%2BTtlL._SL160_.jpg" /><p>　作者の小説群においては「短編期」とよばれる時期の作品。中編といえなくもないが、主題の広がりや構成はやはり短編、その長い部類といえる。一つの主題に割くページの多さからすると、特異に深く掘り下げた考察を読者に与える佳作である。

　小説で中心的に語られるのは、アイデンティティとしての顔、あるいは個人が顔によってアイデンティファイされることの意味である。具体的には、オフラインでは既に顔によってアイデンティファイされた個人が、オンラインでは顔を取り除くことによって別の個人になれる（裸体も曝せる）、今のIT社会では誰もが無意識に行なっていることが展開されていく。

　平野氏は近年、コミュニケーションのあり方について、「分人」ということばを用いている。この小説に当てはめれば、主人公は教鞭をとる分人と匿名で裸体を曝す分人を持つ「個人」であるということになる（複数ある分人の総体を「個人」とよぶ）。ここで重要になるのは、個人と分人の関係で、匿名という行為はその分人が個人とリンクされることを拒むことであり、匿名した分人の窓口から個人へ闖入する事態である。その闖入の重大さは、他の分人を否応なく捩じ曲げることにあり、多くの分人が変容することは、すなわちその総体たる個人もまた大きく変容することになる。

　小説中に起こる事件は極めて小説的な珍事というわけではない。むしろこのような事件が報道されたような気がすると、ソースは提示できなくとも何となくありきたりに思われる。しかし、プロットにこの主題が載せられて語られることで、ネットに限定されないコミュニケーションのあり方について考察する手がかりとなっている。</p>]]>
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  <dc:date>2010-03-16T11:55:59+09:00</dc:date> 
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  <dc:creator>khorita</dc:creator> 
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