46歳でアルツハイマー病の診断を受けたエリート官僚であった著者(クリスティーン・ブライデン)による、2冊目の著作。認知症が痴呆という言葉で表現されることが主流だった2004年に日本語訳の初版が出ている。
「認知」という言葉に、改めて立ち止まる。脳の、あるいは心の障害といったことをよく言葉にするが、身体機能の変化、自然環境や社会の中にいる「私」に訪れるいかなる困難さにも、あるいは喜びや感動のそばにも「認知」はいる。その「認知」が生活の中でどのような影響をもたらす質のものであるのかに、個性があるだけで。
最初の著作「私は誰になっていくの?-アルツハイマー病者からみた世界」は、自分がなくなってしまう恐怖に向き合うことで記された一冊だという(順番が前後してしまったが、こちらは、これから読む)。対して、この本においては、著者は認知症を通じてより深く自分を発見し、「本当の自分になっていく」と語っている。
「真の自己に向かうこの旅で、痴呆症によって認知と感情の層がはがれ落ちていき、私は本当の自分になっていくのだということを、今ははっきりわかっている・・・私の内なる人がどんどん姿を現してきている。この人格は以前にも存在はしていたが、達成された認知とコントロールされた感情の仮面に隠れて、目立たずにいた」
「今、私はより感情的になったと思う・・・今の私は、その人の外側の仮面だけでなくその人全体とつながろうとする」
このくだりを読んだとき、これは、私が自分自身のために気づく必要があったことではないかと、はっとさせられた。自らがつくりあげた認知と感情の砦から、(その人全体とつながろう)という感覚を凍結させてしまっているかもしれない自分。時間軸や規範が社会一般のそれと見た目上ずれていないだけで、私も(そして誰だってきっと)、そんな風にたやすく、本当の自分から遠のき、生きている中核を見失うことはあり得る。
以下、他の印象的なフレーズから:
「私の場合は、精神性と感情を活用した方法によって人を知る。その人の中心の核になる部分ではどんな人間なのかを私は知ることができる。けれども、その人があなたのいる世界、つまり認知と行動、名札と功績の世界において誰になるのかは、私には想像もつかない」
「私があなたを『知る』ということは、魂から魂に伝わるようなあなたの反応が、そのあなたとのつながりが、何らかの形で私の引き金を引くということなのではないのだろうか?・・・」
「あなたの訪問は、記憶してあとで思い出すような認知の経験ではない。私を『今』という時に生きさせてほしい。私が楽しい思い出を忘れてしまったとしても、それが重要でなかったということにはならないのだから」
これは、「生きているとはなにか」私たちの認知そのものを問う言葉だ。アウシュビッツのことを書いたフランクルの著作(「夜と霧」)のことが触れられていることも興味深い。
私たちは一体、何を見て、いや(何を見ようと思って)生きているのだろうか。よい風に覚えていてもらうことに、人生の焦点を奪われてはいないだろうか。いずれ過去になることの怖れから、今を失っていないだろうか。
時を知った風にして生きている自分の、浅はかなところを見透かされたような気がして、ひやりとさせられ、と同時に、氷の解けたあとのような温かな熱が、身体に染み渡ってきた。
- 感想投稿日 : 2014年1月19日
- 読了日 : 2014年1月19日
- 本棚登録日 : 2014年1月5日
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