反論の技術: その意義と訓練方法 (オピニオン叢書 20)

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  • 明治図書出版 (1995年8月1日発売)
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とてもよくできた本だった。反論の意義からはじまり、反論の指導法に進んでいくという全体の構成も大変すっきりしており、目次にもそれは一目瞭然だ。明瞭でありながら、かつわかりきったことをただ整理するというのではなく、次々と常識への反駁の議論が展開され、しかも説得力がある。いくつか興味深い点について。

著者は意見とは本質的に反論である、という主張に基づき「誰も反対しないことを主張させる現行の意見文指導」がいかに空疎であるかを訴える。
僕も常々そう思っていたのだが、それでも実際この国の教育はそれでまわっていて、学生に意見を出させればそのようなものばかりが出てくる。新聞やテレビ(特にNHK)などのマスコミも、「命の大切さ」や「平和の大切さ」など、誰もが当然だと思っていることをただ繰り返すだけに相当な時間を割いている。挙句のはてには、政治など、そこで議論をせずにどこで議論をするのだ、というような場においてさえ、政党の主張を見れば、「税金の無駄遣いを減らす」などというそれ自体には何の異論もありえないようなものが公約にならぶ。しかし本来の論点は、「何を無駄だと考えるか(あるいはどのような優先順位をつけるか」というところにこそあるはずなのだ。

著者も私も、こんな状態に我慢がならぬという点では一致しているのだが、ではあらためて、なぜそんな無意味な「意見」が世の中に横溢しているのかに著者は触れない。
自明といえば自明なのかもしれないが、このことについて触れずに、反論の意義を一方的に述べても、現状に一石を投ずることはできないのだろうか。

なぜ、日本の教育は「だれも反対しないことを主張する」意見の再生産を繰り返すのか。それは誰かが反対するようなことを「意見する」ことのリスクを、個人的にも・社会的にも重く見ているからだろう。社会全体の理念としては、他者への反論がなされることで、集団に波風が立ち、その和が崩れることは望ましくないと考えているのだろう。個人的には、反論を口に出すことで、その個人が「敵」の代表と目されて集中攻撃を浴びるのが怖いのだ。マナーの悪い人間に、多くのものが腹を立てていながらも、誰も注意できないのと同じ構図である。

日本はずっとこのような国であった。こうした無反論体制の中で、かつて日本は、無謀な戦争に突き進み、天皇が出てくるまでそれを終わらせることもできなかった。当時の政治リーダーの多くが、こんな戦争とても勝てるわけないと考えていたにも関わらず、いったんできあがった「正論」の空気にのまれていき、判断を先延ばしにしていった挙句、結果どうにもならない事態へと進んでいったのだ。

無反論の国、日本の体質がもっとも悪く出た出来事だったが、その後も日本社会のこうした性格は何も変わらず今に続いている。

もう一つ興味深かったのは、「反論の目的は、議論の相手の説得ではない。議論の相手は論破するのみであり、説得の相手はその議論を聞く聴衆である。だから、反論は面白くなくてはならない」という筆者の主張である(pp.95-97)。
上記の議論と組み合わせれば、反論によって立つ波風が問題になりがちな日本においては、論争相手のメンツをつぶさない配慮や、対立をより高次元なレベルに昇華するユーモアが、欧米における議論の場以上に重視する必要がある、ということになるのだろう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 学術一般
感想投稿日 : 2012年1月17日
読了日 : 2012年1月17日
本棚登録日 : 2012年1月17日

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