エピローグの衝撃。
彼は本当に恐ろしい相手に立ち向かっていたのだと気付く。
自身の「力」ひとつで。
「ぼく」のメジャースプーンで。
たとえば、それを「悪」と呼ぶのであれば、悪とは過剰なものではなく、むしろ欠落であるような気がする。
愛や敬意や美意識、その他いろいろな生活や心を豊かにする感情。
人間を人間足らしめているものの欠落。
主義や主張、方向性の違いで衝突するのであれば理解できる。
でも、何かが足りない人と向き合う自信はない。
極道の親分は恐いとは思うが、まだ話せばわかる気がする。
それよりも、たとえば花壇にカップラーメンの食べ残しを容器ごと捨てていく人間のほうが、僕は恐ろしい。
小学校二年生にして、すでに心に「メジャースプーン」を持つ少女、ふみちゃん。
もし僕が同級生であったとして、彼女のその魅力に気付くことができるかといえば怪しいところだが、いま身近にこんな娘がいたら確実に好きになっていただろう。
それだけに「犯人」に、ふみちゃんのことを「萌える」「萌えない」といった尺度で判断された瞬間、煮えたぎった液体が胸までこみ上げてくるようだった。
透明な石がついたキラキラに輝く三本のスプーンと、百円ショップで叩き売りされているような安物のスケール。
大切なのは生きてきた時間の長さではない。
その時間をどのように使ったかということだろう。
哲学の基本は対話であるというが「秋先生」と「ぼく」の一週間のレッスンは、まさに師匠と弟子のそれである。
罪と罰、生命とは、裁判と量刑など正解のない問答に、読んでいる僕まで深く考えさせられた。
ミステリ、エンタテインメントとして単純に読んでも面白いのに、この趣向の中に深遠なテーマを織り込んで、尚かつどちらの魅力も損なわない辻村深月は本当に凄い。
ふみちゃんからメジャースプーンを譲り受けていた「ぼく」は、すでに認められていたはずだ。
それを持つ資格があると。
料理の苦手な人ほど調味料を量らない。
腕のいい料理人でも最初はきっちり計量カップやスプーンを使い、しっかりと基本を身体に染み込ませていく。
そうして身体の中に自分なりの尺度を作り上げていった上で、はじめて「適当」や「いい加減」ができるのだ。
僕のメジャースプーンは輝いているだろうか。
欠けて狂ってはいないだろうか。
- 感想投稿日 : 2013年4月30日
- 読了日 : 2013年4月18日
- 本棚登録日 : 2013年4月18日
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