「切り取れ、あの祈る手を」のなかで、佐々木中はとにかく文学について「読み、書くこと。読み変えて書き変えていくこと。全ての”テクスト”においてその行為を行うこと」の重要性を説いています。
文学を続けることの困難さ、情報じゃない文学を書くことの困難さ、は文学に関わったことがある方なら多少感じている所があると思います。
革命につながる暴力性を孕んでいるかもしれないし、全く無意味なものかもしれない。
自分が今やっている研究は、今書いているものは何の意味があるのか、なぜ書いているのか、何が得られて何が残るのか。
それでも読み続けるしかない、書き続けるしかない。
周りのひとからは本は読んでいるけれど、世の中のことは何も知らない奴だと言われたり、自分自身も本当に正しいことをしているのかは分からないけれど、とにかくそこに書いてあることを読んでしまったのだから
信じるしかない。
文学やそして藝術と向き合っていく、ということはそれほど辛いことでもあります。
それを続けられない人が藝術は終わった、文学は終わったと言い始めることについて特に批判している、と著者は述べています。とても辛辣に。
“文学が終わっただの純文学は終わっただの近代文学は終わっただの、もう何百年も何十年も繰り返し言われている。っそう口にする自分だけは新しいと思ってるわけでしょう。残念でした。そんなことはもう飽き飽きしているんですよ。”
終わった、というほうが楽なのかもしれないし、そう考えて続けないことが楽なのかもしれません。
文学は終わりません、と断言するにはその困難さと向き合って続けていかなければならない覚悟と力強さが必要で、
それを持って文章をつづろうとするとこうした文体で書かれた本が出来上がるのだと思います。
一読すると、扇情的に捉えてしまうけれど、それは著者なりの覚悟が現れているものなんじゃないかと思います。
本の最後に、パウル・ツェランの言葉を引用して、佐々木中は以下のように書いています。
“様々な喪失の只中で、手に届くものとして、近くにあるものとして、残ったものは言葉だけでした。言葉は失われることなく残った。”
“残るほうに賭けようではないか。そうするしかないのではないか。読んでしまったのだから。聞こえてしまったのだから。大丈夫ですよ。普通のことです。誰もがそうしてきたように、そうし続けるだけなのですから。”
何も終わらないし、これからも何もかも続いていくのだから、とにかく書け。
文学にできること、とか文学とは何か、とか書かれている本はあるけれど、
これほど端的に答えを出して、書く人を勇気づける本はめったに出てこないかと思います。
最後の引用は地震が起きて以来、ずっと頭のなかを巡っています。
続けていくことに目をそむけずに、残るほうに賭けていたい。
- 感想投稿日 : 2011年5月14日
- 読了日 : 2011年1月11日
- 本棚登録日 : 2011年1月17日
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