考現学入門 (ちくま文庫 こ 2-1)

著者 :
制作 : 藤森照信 
  • 筑摩書房 (1987年1月1日発売)
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感想 : 40

「それは大正12年(1923年)の震災のときからであった。しばらく私たちは、かの死の都から逃げ出してしまった芸術家たちと同じようにぼんやりしていた。しかし私たちはそのときの東京の土の上にじっと立ってみた。そしてそこに見つめなければならない事がらの多いのを感じた。」
それまでの今和次郎は、デザインの技術を生かし、柳田国男とともに農村調査に参加していた。しかし、前述されているように、関東大震災後の東京の荒地に何かを見出した今は、トタンの家をスケッチすることから始める。そして、「考現学」という私造語を作り出し、都市風俗の観察を始めるのである。
 今和次郎『考現学入門』は、そんな彼の仕事の一端が藤森照信によって編集されたものである。そのほとんどが楽しげな雰囲気で書かれているのだが、彼が一番初めに考現学を開始した「焼けトタンの家」だけは、違っている。どことなく感傷的で文学的だ。その人たちが蓄えてきた文化で、焼けトタンで家を建て、生活しようとしている姿。そこに住む人々を見て、今は「黒き、赤き、青きトタンの家よ。それらの住む人々の苦き転化へといかねばならぬ心よ。」と述べている。
しかし、その世界こそ、彼に観察の楽しさをもたらしたのだ。今は、このようにも述べている。「地震前までは、大都会における事物の記録作成ということはあまりに錯雑なので、手に負えないものだと考えなければならなかったのだった。が、原始的な状態にかえったあの当時の東京では記録作成が容易であると考えられたのである。」その後は、復興していく東京の姿を記録していきたいと考え、考現学を続けていく。
では、その考現学とは何か。今は、まさに「考現学とは何か」において、自らの考えを述べている。まず、考現学は考古学に対立したいという意識から作られた。考古学が過去の事跡の科学的研究をするのに対して、考現学は現在の生活・文化の事跡の科学的研究であり、社会学の補助として役立つものである。また、考現学の方法は人類学、あるいは民族学なりでも行われているが、彼らが「未開民族」を対象に行われ、これを未開考現学とするならば、それに対し、考現学は文化考現学(文化社会考現学)なのだという。そして、対象とするのは人の行動に関するもの、住居関係のもの、衣服関係のもの、その他である。
実を言うと、この『考現学入門』には、考現学と名づけられる前の彼の仕事も収められているのだが、あまりにもすばらしい仕事なのでそんなことはどうでもいいだろう。Ⅰには、主に住居関係のものが収められている。「ブリキ屋の仕事」から始めるのだが、スケッチを見る限りあまりにも美しいので驚いてしまった。立派な邸宅にあってもおかしくないような気がするのだ。また、「路傍採集」では、普段気に止めることのない数々のものがこんなにも多様であるのかと驚かされる。特に雨樋には感心した。その後、気になって近所の家を見てみたが、新しい家が多いせいか、どれもかしこも同じであった。ページをめくるたびに、心が躍る。かかしやら、植木鉢やら、店の中やら、見張り台やらと、そこら辺に転がっている、誰も気に留めないものが考現学の手にかかると、こんなにも不思議に見えてしまう。
Ⅱには、「東京銀座風俗記録」、「本所深川貧民窟付近風俗採取」、「郊外風俗雑景」という3つの地域の調査と、「下宿住み学生持ち物調べ」、「新家庭の品物調査」が行われている。はじめの3つの調査は、東京が震災後、どのようになったかの追跡調査のようなものだ。主に主眼を置かれているのは、おそらく銀座での風俗記録である。その比較対象として深川と郊外が描かれる。今は、風俗について言及するなかで、「風俗の相違は、歴史的伝統とそして自然的環境との相違から生まれる、という風俗の生誕個条へ、貧富の相違からも……とはっきり加えたいと思うのです。」と述べている。つまり、銀座を歩く人々と、貧しい深川の人々と、新しい生活に踏み出した中流の郊外の人々を観察することによって、風俗の相違が生じる背景を汲み取ろうとしたのだろう。同じ東京とはいえ、人々の風俗は全く別様のものである。特に興味を引いたのが、女児の髪型である。深川では日本髪の名残も見えるし、基本的にはルーズなのだが、郊外のほうは、きちんと編みさげされた髪や、ボブカットのような髪の子までいるのだ。それぞれの調査結果を見ていても、それが同じ東京であるとは思えない。また「郊外風俗雑景」には、賃家札と看板が収められている。そこが郊外であることを感じさせる言葉がちりばめていて、興味深い。他の2つの調査(学生の持ち物と、新家庭の品物)では、持ち物における個人的特徴やら、その人の生活ぶりなどが覗き見られてしまう。持ち物は、その人を表すというが、まさにその通りである。
Ⅲでは、いままでとは志向の違うものが収められている。本書の中で、私が一番興味を抱いたのは、趣味が悪いと言われそうだが、「井の頭公園春のピクニック」と「井の頭公園自殺場所分布」である。(どうやら、今は自殺場所について他にも調べているらしいのだが。)ある人にとっては、ピクニックを行う楽しい場所でも、ある人にとっては「いい死に場所」であるという事実。人はまったく異なるように空間を捉えているということがよくわかる一例である。今もいっているように、まだまだ調査が足りないのかも知れないが、私たちが地理感覚に敏感になるためにはいい資料といえるだろう。それから、「郊外住居工芸」という調査がある。郊外で出会った、棚と垣根、門などである。
Ⅳには、本当に雑多なものがちりばめられている。誰かが、調べていてもよさそうだが、おそらく今にはかなわないのではないだろか。「宿屋の室内・食事一切調べ二つ」をしたかと思えば、「欠け茶碗多数」、「洋服の破れる個所」、露店大道商人の人寄せの人だかり」や、「女の頭」、「学生のハイカラ調べ」などだ。宿の評論をする人はたくさんいるが、ここまできっちり調べている人はいるのだろうか。特に「欠け茶碗多数」は、こんなことを思いつく人はいないだろう。(それにわかったところで、陶器であれば改善するのは難しそうだ)
Ⅴは、「住居内の交通図」、「机面の研究」、「レビュー試験場はさまざまである」、「物品交換所調べ」がある。
そして、最後に「考現学とは何か」「考現学総論」「考現学が破門のもと」と、今が自ら創設した考現学について、非常に丹念に述べている。おおむね納得できるのだが、若干違和感を覚えることもある。
それは「現代文化人の生活ぶり、その集団の表面に現れる世相風俗、現在のそれを分析考査するのには、その主体と客体の間に、すなわち研究者と、非研究者の間に、未開人に対する文明人のそれのように、あるいは犯罪者に対する裁判官のように、われわれが(調査者)が一般人のもつ慣習的な生活を離れて、常に客観的な立場で生活しているのであるという自覚がなかったならば、あまりにも寂しいことのような気がするのだ。」という部分だ。本当に私たちは自らの慣習から自由になれるのだろうか。それはいささか、不可能なことではないのか。それよりは、自分自身の身につけている習慣について知ることこそが(それはおそらく他者の習慣を知ることで可能になる)、重要なのではならないのだろうか。
しかし、そのことを差し引いても、やはり今和次郎の仕事はこれからも参照されるべきものだろう。また、今自身が述べているように、応用考現学の可能性もある。寡聞にして知らないが、おそらくこの考現学が他の学問に蒔いた種はいたるところで芽を出しているに違いない。
聞くところによると、今はいつもラフな服装でズック靴を履いていたという。本当かどうかは確かめられないが、そういう逸話が残ってしまうくらい、彼の仕事が尊敬されていたということなのだろう。「破門された」とか「小使いさん」として早大に入ったとか、ウソをいう、ちょっとひねくれたところも面白い。
未来を探る考現学。本書を読んで、路上を歩きたくなった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 人文社会
感想投稿日 : 2011年5月7日
読了日 : -
本棚登録日 : 2011年5月1日

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