徳川慶喜 増補版: 将軍家の明治維新 (中公新書 397)

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  • 中央公論新社 (1997年7月1日発売)
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体制が崩壊の危機に直面したときこそ政治家の力量が試される。それぞれの思惑を秘めて画策する朝廷と雄藩と幕閣との複雑微妙な幕末の政治動向の渦中で、最後の将軍はどれほど時代の展望をもっていたのか。英明の君主とともいわれ、凡庸な野心家に過ぎないとも評される多面的な人物像の真実を明らかにすると同時に、武家政治の終焉に立ち会うことになった徳川慶喜という悲劇の将軍の心情と行動様式を通して、国家とはなにかを考える。(1975年初版、1997年増補版)
・はじめに
・Ⅰ 水戸に育つ 
・Ⅱ 将軍不在
・Ⅲ 慶喜後見職
・Ⅳ 禁裏守衛総督
・Ⅴ 最後の将軍
・Ⅵ 壮年閑居
・Ⅶ 昔夢会の虚実
・増補版あとがき
・徳川慶喜の写真室

英明と謳われ開明派の諸侯、幕吏より将軍に就任することを待望された徳川慶喜。大政奉還後のグダグダぶりから、毀誉褒貶、評価の別れる人物である。小説やドラマのイメージ先行ではあるが私も好きではない。とはいえ、その生涯を知らないことには、正しい評価は出来ないので本書を購入した。

有名なエピソードとして、寝相を矯正するため、枕の両側に剃刀の刃を立てたという話がある。眠ってしまえば剃刀を取り除けるのだろう見破っていたともいうが、著者は綱淵謙錠の「脅しの裏を見抜く聡明さに、土壇場になれば自分を助けてくれるものが必ずいるという甘えがひそんでいるのだ」という指摘を紹介している。なかなか面白い見方である。

慶喜の一橋家相続に、将軍家慶の意向が働いていたというのは知らなかった。家慶には家定でなく慶喜を後継と考えていた節があるそうである。ところが、家慶は何も決めずに死去し、逆に家定は慶喜を嫌っていた。
側近の話によると、家定は、しかるべき人物がことをわけて説明すれば、承知しただろうという。ところが、しかるべき人物となりえる阿部正弘は急死し、また、大老に井伊直弼が就任したことにより、将軍となる目はなくなった。当の慶喜は、残された記録によると、将軍になる野心は無く、将軍の家族として将軍家の安泰を願う心情が強かったという。
安政の大獄により、一橋派は弾圧され慶喜も隠居謹慎の身となる。家茂が将軍となるが、桜田門外の変以降、復権する。やがて島津久光が卒兵上京、朝廷の意向により将軍後見職に就任するも、幕府の中で実権を持てないまま、上京した将軍家茂のフォローに苦慮することになる。
京都では、攘夷と開国、参与会議を主導しようとする薩摩藩との権力争いに苦慮する。この中で、松平慶永と対立、島津久光と決裂、将軍家茂とも不仲となるなか、後見職を辞任し朝廷から禁裏守衛総督に任ぜられる。
慶応2年、家茂の病死にともない、慶喜が将軍となる。親仏派官僚と結びつき、軍制改革を進めるが、残された時間は少ない(京都に居たまま江戸幕府の改革を進めるというのも驚異的である)。倒幕の機運が高まるなか、大政奉還という手段に出る。幕府なき後の政権をどのようにするのか。慶喜は有利のまま主導権を握っていたが、鳥羽伏見の戦いの敗戦により、奈落の底へと転落することになる。慶喜は、動転のあまり江戸に逃げ帰る。

明治になって慶喜が語った「昔夢会筆記」という記録がある。この中で、慶喜はその権力を大政奉還で完全に手放したとされているが、著者は事実ではないと断じている。明治政府の中で公爵となった慶喜に望ましく回想されているというのは、目からウロコであった。(もとより回想に、記憶誤認や自己弁護が入る事は当然であるが、公爵という立場が影響しているとは思わなかった。)

本書を読むと、周りに翻弄された、慶喜の不運さというのが理解できる。
権力を奪われた慶喜が77歳まで生き、権力を奪った側が短命(岩倉59、西郷51、大久保49、木戸45が)であったというのは歴史の皮肉であろう。本書を読んだことにより、その人物像を見直すことが出来たのが良かった。巻末には慶喜の写真などが収録されていてお買い得である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史(幕末)
感想投稿日 : 2014年8月24日
読了日 : 2014年8月24日
本棚登録日 : 2014年8月24日

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