冬の鷹 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (2012年9月1日発売)
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感想 : 72

「ターヘル・アナトミア」翻訳の中心人物でありながら、自らの訳業に満足せず翻訳書上梓に反対だった前野良沢は、『解体新書』に翻訳者として名を連ねることを拒否した。代わりに翻訳者の筆頭となった杉田玄白は蘭医としての名声と富を手に入れたが、良沢は人との交際を殆ど断ち蘭学に没頭したため生活は困窮を極めた。

良沢は当時の日本で殆ど唯一蘭書を翻訳し得る語学力をもった学者であり、玄白は学究肌の良沢が効率的に翻訳を進められるよう腐心した有能な編集者であった。良沢がいなければそもそも翻訳は不可能だったが、玄白がいなければ良沢の訳業はいつ成就するとも知れなかったし、成就したとて良沢が訳稿を筐底に秘していた可能性が高い。

訳稿が玄白の手に渡ったのは、幸いだったと云わねばならない。「物に深くこだわることの少ない性格」だった玄白は、自ら翻訳した殆ど誤訳だらけの原著者序文を付して『解体新書』出版に漕ぎ着ける。そして『解体新書』の影響を受けて西洋医学を志す者たちを門下に受け容れ、優れた門人を輩出して更に名声を高めた。良沢には到底為し得ない芸当である。

それにしても、両者手を携えて蘭学の発展に尽くすという選択肢はなかったのだろうか。玄白の医家としての華麗な晩年と比べて、良沢の侘しい極貧生活は何ともやるせない。しかしそれは良沢が自ら選び取った道であり、目が霞んで文字が見えなくなっても蘭書と向かい合っていた彼にしてみれば、あるいは学問に専念し得た満足な一生だったのかも知れない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2012年3月11日
読了日 : 2012年3月11日
本棚登録日 : 2012年3月11日

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