ながい坂 (下巻) (新潮文庫)

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  • 新潮社 (1971年7月19日発売)
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「人間とはふしぎなものだ」と主水正が云った、「悪人と善人とに分けることができれば、そして或る人間たちのすることが、善であるか悪意から出たものであるかはっきりすれば、それに対処することはさしてむずかしくはない、だが人間は然と悪を同時にもっているものだ、善意だけの人間もないし、悪意だけの人間もない、人間は不道徳なことも考えると同時に神聖なことも考えることができる、そこにむずかしさとたのもしさがあるんだ」

「人も世間も簡単ではない、善意と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、そのほかもろもろの相反するものの総合が人間の実体なんだ、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくのだし、眼の前にある状態だけで善悪の判断はできない。おれは江戸へ来て三年、国許では全く経験できないようなことをいろいろ経験し、国許には類のない貧困や悲惨な出来事に接して、人間には王者と罪人の区別もないことを知った、と主水正は云った。」

「小太郎、と主水正は心の中で呼びかけた。この世には、人間が苦労して生きる値打なんぞありはしない、権力の争奪や、悪徳や殺しあい、強欲や吝嗇や、病苦、貧困など、反吐のでるようないやなことばかりだ、そんな事を知らずに死んだおまえは、本当は仕合わせだったんだよ、小太郎。
筍笠を打つ雨の音と、早朝の空の、まだ明けきっていないような、少しもあたたかみのない非情な光とが、主水正の感情をいっそう暗い、絶望的なほうへと押しやるようであった。
『宗厳寺の和尚の気持がいまこそわかる』と彼は声に出して呟いた、『諸国を遍歴し、八宗の奥義を学び取って帰ると、一生なにもせず、酒に酔っては寝ころんでくらした、和尚にはわかっていたんだ、人間のすることのむなしさも、生きるということのはかなさも』
主水正はうなだれた。すると筍笠のふちに溜まっていた雨水が、しゃがんでいる彼の、眼の前へこぼれ落ちた。主水正の喉に嗚咽がこみあげてき、彼は呻きながら泣きはじめた。」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2013年6月26日
読了日 : 2011年1月9日
本棚登録日 : 2013年6月26日

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