読書の極楽とんぼ»
小説、エッセイ、ノンフィクション、自己啓発系、歴史などなど、雑多な読書の記憶の箱です。
レビュー by 夜勤番さん
★ネタバレですので、注意してね。
読み終えて、しばらく経つと、作品全体の印象がどこか『わたしを離さないで』という本と共通したところがあるように感じた。カズオ・イシグロの臓器移植をテーマにした近未来小説と、第二次大戦中のドイツの戦争犯罪をとらえた『朗読者』とは、まったくスタンスが違うはずなのに、人間が実行してしまう悪と、その前に立ちすくむ弱くて、時にずるがしこく、一方で純粋な人間のあり方が、時代背景にかかわらず共通しているのかも知れない。
『朗読者』はいうまでもなく、その構成が秀逸で、読み進めるごとに新しいテーマが立ち現れてきて、次々と人の心の深淵へ連れて行かれてしまう。
まず一章は主人公で十五歳のミヒャエルと三十六歳のハンナの不思議な恋の世界の描写からスタートする。そこでは徹底的に男女の世界を描き、そして思春期の少年の世界を懐かしくも、つややかに描いている。ストッキングを履くハンナの美しさ。苦しい結末に終わってしまった当時の幸福を思い返す苦しさ(今と過去を行きつ戻りつして描く手法なので、本書後半の不幸を知らない読者にとって謎かけのようにもなる)。読み終えた今ならわかるけれど、ハンナ独特の性格描写の意味。たとえばミヒャエルとケンカをしたとき、いつも彼に詫びさせたり、誓わせたりする強引なところ。特に自転車旅行中の些細な誤解がきっかけで、ハンナが突然、細い革ベルトでミヒャエルを打ったシーンは衝撃的だ。
ここでは二人の年齢差にインパクトがあって——もちろんそこには二章以降の話の展開が続くから必然なのだけれど——だからこそミヒャエルの少年らしい視線が冴えてくる。これがただ病み上がりの少年の思春期の日常を描くだけなら、もちろん父親の描写などはすぐれているけれど、ここまで緊張感のあるストーリーテリングにはならなかったと思う。
二章は秘密を暴く物語だ。法廷での再会は、「もしかしたら、こうなるのでは」と微かに予想させていたから驚きではなかったけれど、読み進める中で「ハンナは文盲では」と私自身が気づき、「さあ、ミヒャエルはどうするのだろう?」と期待しながら先へ進むという、小説らしい興奮があった。
この著者は、とにかく繊細な心理描写が上手で、それがあらゆるページにばらまかれているような気がする。その中でも、やはりもっとも重要なのは戦争犯罪についての考察だろう。
ミヒャエルはハンナの裁判を傍聴しながら、裁判で明らかにされる残虐な行為に、被告はもちろん、裁判長も参審員(陪審員のような人々)もしだいに慣れて、ある種の麻痺状態になっていることを語る。その体験を自らも味わいながら、「加害者と被害者、死者と生存者、生き延びた人間と後から生まれてきた人々を互いに比較し、嫌な気分になった。…こんなふうに人間を比較してしまっていいのだろうか?…強いられて収容所に来た人々と自分からやって来た人々、自ら苦しんだ人々と他人に苦痛を与えた人々との区別を相対化するものではないし、そうした区別の方が重要で決定的な意味を持つものだ、と強調してきた」と語る。
この部分は文章として少しわかりにくい(もしかして翻訳の問題?)。たとえば「区別を相対化する」というのは、どっちが偉くて、どっちが愚かで悪なのかという比較を行い、第三者が断罪するという意味だろうか? 「区別が重要で決定的な意味を持つ」というのは、自分がどの立場に立っていたのかということそのものだけが、優劣とか罪のあるなしに関わらず、ただ重要だということだろうか?
ただ、次に続く彼の考え方は、ドイツ同様、歴史のすねに傷を持つ日本人としては、常に投げかけられる永遠の謎だ。私たちあとから来た世代は、過去をどうすればいいのかということ。数少ない何人かが戦犯として死刑になったり、刑に服したりして、なんとなくお茶を濁し、あとの世代はただ驚愕と恥と罪の中で押し黙るのか。
本当ならあの時代の現役世代だった人たちが、なにかを明らかにして欲しいと思うのだが、まさに作品中で現役世代だったハンナは囚人たちを死の場所へ送り返すかわりに、何をしたらよかったのかと問われたとき、何をすべきだったのか、何ができたのかわからなかった——という様子で、ついには裁判官に「あなただったら何をしましたか?」と問いかけるのだ。
裁判の中で、囚人の看守として働いていたハンナたちを遠巻きに見ていた村の住民たちの描写もまた意味深い。囚人たちを本当なら救えたのではないかという非難が自分にふりかからないよう、賢く逃げ、十分に注意する。こういう状況はなにもホロコーストという究極的な場面でなくとも、戦時下の日本でもあったし、実は今も私たちの身近にしょっちゅう存在している。結局、生きていく上で何を重要視し、どう行動し、何を譲らないのか。そういう小さなことの積み重ねが、ハンナが遭遇したあの事件——空襲で燃えてしまった教会に閉じこめた女性囚人を救うことなく、鉄のドアを外から施錠し、放置し、二人の女性を残して全員を焼死させた——につながっていくのだろうか。 ハンナ一人のせいではもちろんなくて、他の女看守、逃げ去ってしまった男の上司たち、遠巻きの村人。さらに遠くから見ていくと、それこそ一億総懺悔になってしまって、何が何だかわからなくなる。
結局、この話題は戦後ずっと日本でも語られ、語られず、どこかに沈殿し、もちろん私の中にも忘れることなく残っている。もっと若い世代はどうなのだろう。ヒロシマと南京虐殺について語りながら、天安門広場の事件を思い起こし、イラクではどうなのか、一年前、イスラエルがパレスチナでやったことは何なのか、そういったことを全部忘れたような感じで、でも機会があればちらちら思い出したりしながら、毎日の暮らしに追われているかのように振る舞っていることは、各世代の中でどういう意味があるのか。だけど、それは誰にとってもそうだろうけど、ハンナのように人殺しの場面に知らない間に立っていることだけは避けたいのだ。
第三章は、ある運動に関する物語かもしれない。その運動のあり方を、主人公・ミヒャエルが法史学の専門家となった後、法律の歴史を説明しながら、こんな風に解説している。「法律の歴史には進歩があるのだと信じていた。…そんな確信が幻想に過ぎないことに気づいて以来、ぼくは法律の歴史について別のイメージを抱いている。法律はある目的に向かって発展していくが、…たどり着く先は結局またもとの振り出し地点なのだ。そして、そこに戻ったかと思うと、またあらためて出発しなくてはいけない」
新たに出発するため、あえて出発地点へ回帰することがある。ぐるぐる回っているかのような運動に意味があると同時に意味が無く、成功と同時に無駄でもある。一方通行の「進歩」でなく、輪のようになっているという発想はとてもユニークだし、この社会を理解するのに役に立つような気がする。
それを具体的に表現したのが、この小説の中では「朗読者」になるということだった。ミヒャエルは幸福な一章で「朗読者」になり、二章で殺された「朗読者」の存在を知り、三章で再び「朗読者」になった。最後の「朗読者」のおかげでハンナは文盲から脱出し、強制収容所についての書物を多量に読んで、当時の自分が置かれた状況を学び、なにか違う存在に生まれ変わったかも知れない。そこがプラスとすれば、結局、彼女は自殺してしまい、マイナスがあって、わずかに残したお金をユダヤ人識字連盟に寄付することができたという何かのプラスがあった。ひとつの救いがあるとすれば、もしかしたら生き残った女性がハンナの残した紅茶の空き缶を受け取ったということで、わずかな赦しか、あるいは理解があったのかもしれないと思わせたことだろうか。
文盲のテーマも実は深くて、もっと語りたいところだが、長文になりすぎたのでここまでに。恐らく今の私には「なにをなすべきなのか」ということに興味があるのかもしれないと、本書を読み終えて思った。
登録日 : 2010年02月04日 20:02:08


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