JOJO’S BIZARRE ADVENTURE OVER HEAVEN

  • 集英社 (2011年12月16日発売)
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感想 : 230
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西尾維新は西尾維新にしかなれなかったなあと思いました。
どうか勘違いしないで頂きたいのですが、私西尾維新氏の作品は好きです。少なくとも単行本化した物は全て読破しております。
その上で、彼は戦闘シーンの描写はそこまで得意ではないなあと、以前から思っていました。人間思考の渦巻きや言葉遊びこそが彼の本領であり、味だと思うのでそれは別に悪くは無いんです。悪くないどころか私はそういう点が好きなので。ごく個人的には、無理に挑戦するよりも彼本来の持ち味を生かして書いたほうが結果面白くなるのではと思っていましたが、ただまあ、今回はジョジョのノベライズということですし、ジョジョといえばやはり熱い戦闘。そこをどう攻略してくるかが非常に楽しみでした。
あともう一つ気になっていたのが人称の問題です。彼の作品は殆ど全て一人称で構成されています。彼の作風のままでいくならば今回も確実に一人称になる訳です。先程も申し上げた通り、私は彼の作風を生かすべきだと考えていました。しかし、そもそもがあれだけ個性の詰まったキャラクター。そして読者それぞれがそのキャラに対して抱いているイメージと理想と言う物があるわけで、それを壊さないように書くことは、一人称では本当に難しいのではないでしょうか。そして致命的な問題が一つ。

ジョジョキャラってそんなうだうだ悩まないんですよねー
そして言葉遊びを繰り返すよりはインパクトのある一言でビシッと決める。

それがジョジョに登場するキャラクター達の特徴であり、だからこそあれほどスピード感のある物語になるわけです。まあつまり何が言いたいかっていうと、西尾維新氏の作風とジョジョキャラの相性が悪すぎるという。

ここまでは発表された当時に思いました。
で、発売間近になって、『DIOの物語!』と判明して「ぅええええええええええ?!」となりました。
よりにもよってDIO様一人称かよ、と。
あんな、人間を超越して、確固たる信念と野望を持ち、迷いなんて無さそうな、キャラクタを、一人称で?
相性が悪いにもほどがあるっていう…。西尾氏の得意な人間の思考の迷いとか葛藤を描くにしたって、DIO様は人間を超越しています。
また、例えばかの名言「貴様は今までに喰ったパンの枚数を覚えているか?」。これも一つのレトリックですが、これは西尾維新の言葉遊びとはベクトルが違いすぎます。
西尾維新なら「僕は今までに何回食事をしただろう。朝昼晩と規則正しいいただきますの中でいったいいくつの米粒を噛み砕きすり潰し咀嚼し飲み込んだだろう。誰もそれを数えちゃいない。それで正しい。間違っていない。幼いころよく米の一粒一粒に神様が宿ると言い聞かされたものだが、それで言うならば僕は知らぬ間に、いったい何人の神様を食いつぶして来たんだろうか。僕はそれを数えちゃいない。数えるつもりも無い。ところで君はどうなんだい?何人の神様を食い物にしてきた?」
くらいに文が伸びると思います。例えの文章内容が稚拙なのは勘弁して下さい。
はてさて、それでじゃあどうすんだろう、と。

私が考えたのは三つです。
まず、一人称ではなく三人称にしてしまう。そうすればこの問題は一気に解決できます。ただし、作風には合わないので出来がどうなるかは微妙ですが。
二つ目、DIOを傍から眺め続けた第三者視点の一人称で進めてしまう。これが一番可能性としてはありかなと思いました。オリジナルキャラを出す訳ですから、既存の枠には囚われませんし、そのキャラがどんなに思い悩む奴でも別に構わない訳です。
そして三つ目。DIO様一人称で進める。正直これは無いだろうと思っていました。ファンが少ないキャラならばともかく、ジョジョの根底を支えるキャラクターです。皆それぞれ理想のDIO様像を持っていて、しかもそのハードルは非常に高い。あまりにもリスキーすぎます。


まあ、そんなことをうだうだ考えながら発売を待っていた訳です。そうして発売日当日に購入&読了した結論を言わせていただくと、
悪い想像全部当たったなっていう。

まず人称はやはり一人称。しかもDIO様です。
まあ、「他の人間が意訳したDIO直筆ノート」という設定なので、厳密にはDIO様一人称では無いですね。本文自体は終始DIO様一人称で語られていますが、設定を忠実に取りだせばそういうことになります。それで一つ、最低限の回避ルートは確保されていたように思います。
どういう意味かというと、DIO様がどんなに私たちの想像と違っても、それは「意訳した人間のミス」という解釈が常に出来る訳です。それは別に悪いことではないと思います。西尾氏の書こうとしたDIO様像が、我々の描いている像と違うと言う事をちゃんと理解していたからこそ、彼はこのように私たちに「あくまでも他人(=作中の研究者)の解釈」という逃げ道を残してくれたように思います。それはとりもなおさず西尾氏の逃げ道にもなり得ますが。
では、西尾維新の書こうとしたDIOとはどのような人物だったのか、です。
ここからは本当にごく個人的な解釈になりますが、それは「人間としてのDIO」だったのではないでしょうか。
人間をやめた筈のDIOを、あくまでも人間の心を持ったままの人物として描く、そうして新しいDIO像を見つけることが目的だったのではと思います。私たちが「悪の救世主」として神のように崇めている存在を人間というステージにまで戻した。そうすることによって「人間の内面の葛藤や矛盾」を得意とする西尾氏の作風が生かせるわけです。
これは賛否両論だと思います。イメージからずれた所を描写するわけですから、当然のことでしょう。イメージと違う、DIO様では無いただのDIOが嫌な人には受け入れがたい物です。相当人間臭くなっています。ごく個人的には、まあ、無くはないかな、くらいの適当な感想を持ちました。イメージとは違うけど、でもまあ、無くはない、かな、うん。くらいです。

私が最も失望したのは、そこまでしておきながら、神を人間にまで落としておきながら、西尾維新の良い所が全く生かし切れていなかったと、少なくとも私の眼にはそう見えた所です。
内面描写は薄く、かつてあった出来事を表面だけなぞるばかり、解釈に終始して、言葉遊びも単純どころか、ただのくどい繰り返しです。
同じ言葉を繰り返すのは一つの手法だとは思いますが、今回はあまりにも露骨過ぎて、「こいつ他に言う事ないんじゃあないか?」としか思いませんでした。
ていうかこの内容もう四回目くらいじゃね?さっきと言ってる事何が違うの?DIO馬鹿なの?と思わざるをえませんでした。
どうせ壊すならばもっと徹底的に、彼の心情を深く深く考察して西尾氏の言葉で書いてほしかったです。既存のDIO様像を壊そうとする割に、新しく作り上げるDIO像が薄っぺら過ぎて壊した意味がまるでみつかりません。最後の頁を読むまで評価は決めるまいと思っていましたが、最後の頁を読んでもこの評価は変わりませんでした。

「荒木神の適当なフィーリングだろう」と思っていた単語や数字に意味を見出そうとするその心意気は良いと思います。解釈はたとえこじつけだったとしても面白かったので、より残念です。
あと、開いた時に驚いたのですがあまりにも行に対する文字数が少なく、また行変えが頻繁で正直びっくりしました。その癖同じ言葉が何度も出てくるので実際内容としての文字数相当少ないんじゃあないか?ぶっちゃけあのページ設定でこの値段おかしくないか?絶対パープルヘイズの方が実際の内容量多かったぞ?っていう。別に今までに読んだ本の文字数なんて覚えちゃいませんが。時間が無かったのでしょうか。最近西尾氏は仕事をし過ぎではないか。余計な心配をしたくなります。


総評として言わせていただければ、
・既存のDIO様像を求める方にはお勧めできない
・別の方向から物語を見たいならおすすめ(しかしその割に世界観が薄っぺらい)
・ジョジョではなく西尾維新氏のファンとして残念

と言ったところでしょうか。次回は舞城王太郎さんですが、この方は完膚なきまでに既存の枠を壊して彼の世界を作り上げてくれるのではと期待しています。多分、舞城王太郎がジョジョの世界を書いたらそれ多分もうジョジョじゃない。JDCトリビュートで学びました。舞城王太郎は舞城王太郎にしかなれません。それでいうならば、私は今回これを書くにあたって最初に「西尾維新は西尾維新にしかなれなかった」と書きましたが、西尾維新にすらなりそこなった感を受けます。彼がジョジョのファンであることは知っていますし、あとがきを見る限りでも相当苦悩していたようだったので、それだけ思い入れ深い作品を書くにあたって、いつもの調子が出せなかったのかもなあ、なんて邪推しました。お母さんの前で照れる子供みたいにね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: エンターテインメント
感想投稿日 : 2011年12月17日
読了日 : 2011年12月17日
本棚登録日 : 2011年12月17日

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