昨日ほほうほうほう言いながら読み終わった本である。別にためになることが書いてあるわけではないが、ほほう…というくらいによい装丁の本ではあるし、ほう…と声がもれるほどにはちょっと声に出して読んでみようかと思うくらいわたくしのすきなこのひとの文章のリズムというものはいつもどおりすばらしいものである。ほいで今日ついったーを眺めていたらもひとつほう!となることがあって、ちょうどこの本でチャンドラーの日本語訳の訳者が二人いた(清水俊二と田中小実昌)というところからその訳の違いにふれつつ、どちらかというとより特徴的な、そしてわたくしの愛する田中小実昌の翻訳について語った文章を読んだその次の日に、ネットのニュースで「『ロング・グッドバイ』ドラマ化決定」という見かけ、しかも脚本は渡辺あや、舞台を日本に翻案しているというまあ原作扱いなのだからそりゃあ日本人がマーロウなんて名前じゃあないよな、そりゃそうだろうよ…とわかってはいたけどそこにはちょっと気落ちしつつ、しかしながら主演に決まったという浅野忠信が田中訳のマーロウのように「ぼく」そして「おれ」をつかいわけて誰かに(自らに)語りかける姿を想像してみるのである。たぶんそんなふうにはならないだろうけれど…。
なんの話をするつもりだったのか。この本の話か。まさか時計雑誌に掲載されているものだったとは。そしていろいろな切り口から語りつくされる「窓」についての話。時計雑誌だから「時」とかなのかと思いきや「窓」。ずっと「窓」。しかし読みすすめていくと…という先にあるのは別にカタルシスなどではないのだけれど、ああ、まあ、やっとね、そうよね、ひとつくらいはね、でも書くとしたらこのタイミングくらいよね、とまたもや、ほう、と言ってしまったのであった。
- 感想投稿日 : 2014年1月14日
- 読了日 : 2014年1月14日
- 本棚登録日 : 2014年1月14日
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