デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

著者 :
  • NHK出版 (2003年5月1日発売)
3.26
  • (2)
  • (9)
  • (21)
  • (0)
  • (2)
本棚登録 : 154
感想 : 10
3

著者みずからデカルトの思考をたどりなおすことで、デカルトとは別の到達地を探ろうとする試み。内容は、「何かが現象してしまっている」という事態を問う、斎藤慶典の他の著書と大きな違いはない。文体もいつもの斎藤節だ。

デカルトが懐疑の果てに見いだしたのは、「今、私には何かが見えると思われ、聞こえると思われ、暖かいと思われるというこのことは、確かである」ということ、つまり「思われ」ているそのことは、絶対に疑いえないということだった。だが著者は、デカルトがこの「思われ」を「考える私」と言い換えている点に、重大な取り違えがあるという。

著者は、「思われ」は「思考するもの(者)」でも「思考されるもの」でもなく、むしろ「思考するもの」と「思考されるもの」が、そのうちで初めて成立するような、端的な「……と思われること」それ自体なのではないかと言う。そうした「思われ」こそが、すべてがその内で姿を現わすような「世界の母胎」なのであって、そのうちでしか「何かが疑いうる」とか「疑いえない」という事態も成立しない。そうだとすれば、この「思われ」は、けっして「絶対に疑いえない」といえるようなものではない。あらゆる思考がその内で成立し、それ自体はもはや思考されることのない限界に、デカルトの思索は逢着していたのにも関わらず、彼はそうした事態を「考える私」と取り違えてしまったのではないかと、著者はいうのである。

ところで、そうした「思われ」それ事態は、すべてがその内で姿を現わす「場所」なのであり、その「外部」は存在しない。だが著者は、「思われ」それ自体を、その「外部」を考えることのできないような「一個の全体」として見て取るということは、どのようなことなのかと問う。一個の完結した全体としての「思われ」が考えられているとき、私たちはけっして「外部」を持たないはずの「思われ」の「外部」に広がる「無限」に触れるのではないだろうか。著者はこのように考え、私の内にある「無限」の観念が、私自身によって生み出すことができないことから、「無限」なる神の存在を証明するデカルトの議論を、上のような議論へと読み変える試みをおこなっている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 近世経験論・合理論
感想投稿日 : 2011年3月16日
読了日 : -
本棚登録日 : 2011年3月11日

みんなの感想をみる

ツイートする