小池昌代は、いよいよ小説家の書くような小説を書くようになったのか。そのことに軽い衝撃を覚えてしまう。これまで小池昌代の書いて来た小説はどこかで彼女の詩の延長線にあることが読んでいて意識されるようなものであって、自分はそれが気に入ってもいたので、そんな感慨が湧いてしまうのである。
どこがそんなに違うというのか、と訝る人もいるかも知れない。きちんと分析をしてみた訳ではない。しかし確信できるのは、間、である。この文章には思わず息を止めてしまうような間がない。それが違う。とにかく、すらすらと読み易い。それが悪いことだとも思えないのだが、何か気持ちを引き留めてくれるようなものがなく、目だけがつるつると頁の上を滑ってゆく。
一葉を語る内に見えない世界に入り込む。そういう構成が嫌なのではない。例えば蜂飼耳の小説に出てくる異界の混在は、小池昌代の世界観に繋がるような気がするが、その混在に切れ目のようなものを感じることはない。切れ目は仕掛けを意識させる。仕掛けが意識されると騙されないぞという気分がわく。蜂飼耳の小説ではそういう気分が立ち上がることはない。印象としてはもっとわざとらしく異界が現実に介入してくるように思える村上春樹のカエルくんのような世界でも切れ目が意識されることはないので拒絶は不思議と起こらない。小池昌代の短篇集、例えば裁縫師を読んで、そんなことを感じたことはなかったのだが。
例えば、それは、耳、という機能に関連しているものなのか、とも思ってみたりする。自分は黙読をしながらも音読をする。情報を得ようとぱっぱっと映像的に読んだりすることも出来ないではないけれど、時間が掛かっても音読したい気持ちが勝つ。すると不思議と実際の音を聞いている訳でもないのに、脳の中の音を聞き分ける部位が動いているような気がするのである。そしてその部分に刺激的である文章のことが気になる。そんな文章を書く人が好きなのだと、結果的に解る。
小池昌代の詩の音には間違いなくそんな魅力がある。そして小説を書き始めた頃の文章にも。それがこの厩橋では物語を読ませる方向へ転換しているように感じるのである。物語を聞いて活性化する脳の部位は耳を司る部位とは異なっているのだろう。そして自分の脳はその部分に対してとても疑い深い性質を発揮するように構成されているような気がしている。物語を読まされていると思った瞬間、何故かその部分を沈静化しようとするのである。
だから小池昌代が悪いわけではないのだが、新作を期待して待つ作家ではなくなってしまうのかも知れないと、勝手に危惧してしまうのである。
- 感想投稿日 : 2012年5月29日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2012年5月29日
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