人間の土地 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1955年4月12日発売)
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感想 : 433
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新潮文庫の100冊というキャッチフレーズが夏の風物詩になってどの位が経つのだろう。その昔100冊の中に網羅されている本をすべて読んでやろうという勢いのあった時分が懐かしい。その当時、新潮文庫の100冊の中にサン=テグジュペリの「星の王子さま」は入っていたように思うが、当時の自分はカフカの「変身」やカミュの「異邦人」、そしてヘッセの「車輪の下」などを訳もなく面白がっていたので、児童文学の匂いがしそうな「星の王子さま」には手が伸びなかった。結局、「サン=テグジュペリ」という無機質な符牒は記憶に残ったけれど、その世界に足を踏み入れる機会はないままだった。

箱根に「星の王子さまミュージアム」という施設がある。子供を連れた旅行であったので、ふらりと寄ってみたことがある。正直言って、博物館としての期待よりも遊園地として入ってみようか、という選択だったと思う。ところが「星の王子さま」ミュージアムとはいうものの、実際には「サン=テグジュペリ」ミュージアムであって、資料も豊富。小さく閉ざされた異空間のような施設を巡っている内に、サン=テグジュペリの生涯が紹介されるように上手く設計されている。資料などを読んだりしている内に夢中になってしまったらしく、そんな面倒くさいことをする筈もない子供たちが待ちきれなくなる始末だった。その時、自分の符牒に少し色が付いた。とは言え、その記号が実態を持つことは、やはりなかった。そういう訳で、この「人間の土地」が自分にとって初めて読んだサン=テグジュペリである。

今年の夏、ふらりと入った本屋さん(何故、本屋、ではなくて、本屋さん、なのか。時に本屋と言いたくなる書店にも出会うこともあるのだが、概ね、本屋さんと呼んでしまう。その理由が知りたい)で新潮文庫の100冊のコーナーを何気なく見た。最近は文庫を余り手にしないのだけれど、すっと目を惹く本があり、気付くとレジまで運んでいた。それが「人間の土地」である。

自分の目を引いたもの、その正体を明かすと、実にミーハーな感覚に直結したものだということがわかってしまう。まずはカバーの表紙。このタッチは間違いない、宮崎駿、だ。宮崎駿といえば飛行機という連想はファンになら朝飯前のことだが、何故新潮文庫の表紙を?、と少し考える。ははあ、これはきっと「紅の豚」が公開された後に新潮社が監督に頼んだに違いない。サン=テグジュペリが飛行機乗りだったことは、辛うじて自分の符牒に記されていて、その生涯に宮崎駿の美学と呼ぶようなものと通じる何かがあるだろうことにも、ピン、と来た。それにしても、こういう絵の場合、宮崎駿の描く世界には急にヨーロッパの風が吹き始める。それでいて、湿っぽい。朝露や夜霧の湿気が感じられるような、風だ。この表紙の絵をふと手元に置いておきたくなる。そろそろ、サン=テグジュペリを読んでもいい筈だ、とも思う。そして、訳者を見ると、なんと堀口大學。男声合唱を経験したもので堀口大學の詩を口にしなかったものなぞある筈がない。古典中の古典、清水脩の「月光とピエロ」を始めとして、多田武彦の「人間の歌」など。もっとも、堀口大學のイメージを音の世界に探り当て、しっかりとそれを描いて額にいれて掲げたのは南弘明の「月下の一群」だろう。それまで教科書に出てくる詩人にありがちな少し黴臭いイメージであった堀口大學を、自分にとって魅力的な詩人にしてくれたのがその曲だ。その出典でもある「月下の一群」と題された詩集を通して、堀口大學がフランス文学者であることも知ったのだ。そんな記憶が一気に呼び戻される。だから「人間の土地」の翻訳が堀口大學であるという事実が、ほんの数秒頭の中で反芻された後、スパークしたように、それはそうだ、という自分勝手な納得に至ったのは当然だった。そして時と空間を越えて結びつく符牒。「サン=テグジュペリ」−「宮崎駿」−「堀口大學」。その僥倖のような集約を手にしない訳にはいかないだろう。

サン=テグジュペリは、彼の時代の人間が、それも飛行機乗りのみが体験し得た世界を語る。極限にまで張り詰められていた筈の精神状態について語る。その中から見えてくる人間の本質。そして堀口大學がいう「高気な」人間性というものの在り処について語る(それはしかし本当に高貴なものなのだろうか)。あるいは、「本然」と堀口大學が訳出したもの、それを巡るサン=テグジュペリの長い回想と考察、それが「人間の土地」の芯の部分だ。

今でも簡単に、未開の土地、などと形容することがあるが、果たしてサン=テグジュペリの時代に意味していた程の真実を、その言葉が持ち得ているかどうか。サン=テグジュペリの前に広がった空、それは誰も経験したことのなかった空間であり、その視点から見下ろした地球、昼と夜の顔、それら全てが未だ人工的な形容詞を冠されたことのないものだったという事実に思いを至らせると、この疑問の意味が伝わるかも知れない。しかし、サン=テグジュペリが見いだした「本然」と呼ぶものは、決してそんな瑣末なことにこだわってのことではない。未開の空間に接することでその本然が見え易くなることはあっただろうけれど、本質的に彼が探求したもの、そしてその探求する姿勢から学び得るものは、現代においても意味のあることだろう。事実、その本然を見いだすには、実は都会の喧騒の中に一人で住む男の部屋ほどの場所があれば済むことであることも、サン=テグジュペリは語っている。もし、その男が内なる世界を一切外の世界と結びつけないとしたら、その男の生き方は、広大に広がる砂漠の中を飛ぶ飛行機乗りの生き方と変わるところがない、と。

航空機黎明期。商業飛行ルートの開発。それは自らの命を預けなければならない乗り物に対する信頼に未だ、祈り、の要素が多く含まれ、行く先だけがはっきりしている冒険に伴う危険を計算しようにも計算できず、冒険家たちの実体験だけが頼りとなる灯台である世界だ。その灯台の光は恐ろしく小さい。しかしその周りに広がる果てしない漆黒の中で、その小さい灯がどれ程の輝きを持てたことだろうか。羅針盤と大部分が想像からなる地図を頼りに新世界を求めた大航海時代に匹敵する時代だろう。しかし、陸に上がった船乗りたちの物語が酒場で語られたとしてもささない暗い影が、航空機乗りたちが語る冒険談にさすのは何故か。それはおそらく彼らが強いられる孤独ということと無関係ではないだろう。

呼応し合う「砂漠で」と「砂漠のまん中で」という二つの章がある。砂漠に不時着した体験を語る「砂漠のまん中で」の中で、サン=テグジュペリは砂漠からの脱出の冒険をひけらかしたり、あるいはその成功に続く感慨を語ったりすることはない。砂漠はサン=テグジュペリにとって克服すべきものではないのだ。彼の脱出劇は、彼と砂漠の関係の物語となっていく。その関係は、優しく接したかと思えば急に牙を立てる古い恋人同志のようにも映る。決して孤独ではない。でありながら、砂漠の中にいる内に、自分自身が世界から急に浮き上がったようになる感覚を描いてもいる。しかし、それは孤独というトーンでは語れない色調なのだ。一方で、砂漠に設営され一応は独立した空間を保持している基地での生活を綴る「砂漠で」の章では、サン=テグジュペリには同居する仲間や、半ば敵対する砂漠の部族の存在もあり、人との接触は多いにもかかわらず、どこへも行けない孤独感が漂う。この孤独感の有無の違い、それは単純に言えば、常にここではないどこかへ旅を続けることを志向する飛行機乗りの本然に由来する感情の違いなのだろう。それを冷静に書き分ける視点がサン=テグジュペリにはある。飛行機乗りは自分で自分の運命を握っているという事実を、嫌でも理解している。船長に言われて舵を取るのでもなく、自分の命ずるところに操舵を向ける、あるいは危険を回避する。その決定権が、飛行機乗りには、ある。その事実が、彼らをして自らの心の奥深くを覗き込ませるという行為に向かわせる。その行為が、自分の欲望も理性的な判断もすべてを見つめ直すというその行為が、彼らに孤高の雰囲気を与えもするし、自分の置かれている位置を見失わない冷静さを備えさせてもいるのだろう。そこに、信頼の基礎がある。

それにしても、「人間の土地」を読みながら、サン=テグジュペリがその本然を一方で尊敬し、かつもう一方で軽蔑しているように感じるのは自分だけだろうか。実は、この感じは自分が宮崎駿に対して抱く感想と近い。その本然が全て正しい高貴な気持ちからだけなるのだと語り、読者に共感を抱かせる能力がサン=テグジュペリにはあった筈だ。それはある意味において勧善懲悪的で、構築し易い論理なのだ。しかし、サン=テグジュペリの文章を読んで我々は飛行機乗りを一方で尊敬し、もう一方でその野蛮さを呪う。そのような危うい感情のバランスを取ることを強いられる。そのバランス感覚こそ、自分が宮崎駿に対して抱く一種の尊敬に近い感情の基となる感覚だ。そして、サン=テグジュペリにも同質の視点を見いだして、最初に自分が感じた直感に意味付けがなされたように思えるのだ。

この文章を書いた人間は、その後、嵐の海の上で消息を断ったことを我々は知っている。知っているからこそ、この残された文章に、見栄や飾りのないことがより鮮明に意味を持つのだ。今年、海底から引き上げられた飛行機の残骸が、サン=テグジュペリを最後に載せた飛行機であることが判明したというニュースがあった。その残骸が見つからなければ、星の王子さまのようにいつか帰ってくるかも知れないと空想することができた人々も居ただろう。しかし、その残骸は、サン=テグジュペリが、運命がどこへ続いているのか知っていながら、どこまでも本然に対して正直な人であったのだということを雄弁に物語っているのだな、と自分には思える。そしてその本然とは、宮崎駿があとがきの中で、自分の中にある「凶暴なもの」と呼ぶものと表裏一体なものであると思うのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2004年9月7日
読了日 : 2004年9月7日
本棚登録日 : 2004年9月7日

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