火葬人 (東欧の想像力)

  • 松籟社 (2013年1月23日発売)
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『「これまで以上にね、そうすれば全てが今まで以上によりよく、迅速に行われる。一見したところ難しそうに思えるかもしれないが」コップフルキングル氏はテーブルのほうに笑みを浮かべた。「実際はそれほど難しくはないんだ。この番号は葬儀の順番を示している」』

少しだけ台詞掛かった会話の一文が、徐々に倒錯者の独白のような響きを帯び始める。その奇妙な感じの根底に、真面目な性格故に不器用な人が自然と持つ好もしさと、原理主義的な志向が指し示す冷血な真の顔の冷ややかな眼差しを、同時に感じ取る。この恐怖は過去形でのみ表されるものはない。そのそら恐ろしいものは彼岸ではなく此岸に巣食うもの。そんな理解に行きついてしまうと、人が誰しも持つ二面性が、日常の表面的な平穏さの直下で黒々と蠢く様が頭から離れなくなる。それは単に過去のものでないというだけではなく、他人様のことと割り切ってしまうこともできないこと。自分の血の中にも脈々と流れている狂気でもあると覚悟するしかないことなのだ。

第二次大戦下のヨーロッパに留め置かれたユダヤ人という文脈で直ぐに思い出すハンナ・アーレントは、その二面性をごく普通の人々の内にある狂暴さとして読み解いて見せた。フクスのこの作品もアーレントの著作と同じような文脈に置かれて然るべきなのかも知れない。だがここには、普通の人々の持つ二面性からは遥かに逸脱した狂気がある。

例えば狂言回しのように主人公の行く先々に現れる夫婦。次第に彼らの存在は現実なのか、あるいは主人公であるコップフルキングル氏の想像に過ぎないのかが不確かとなり、存在自体が怪しくなる。更に想像を膨らませれば、この架空の夫婦の交わす会話こそが現実のコップフルキングル氏と妻との間で交わされた会話であって、コップフルキングル氏の独白の方が想像の会話であるかのようにも読めてくる。恐怖の速度が一段加速する。体制に取り込まれてしまった我が身の悲運を嘆きつつ、コップフルキングル氏は徐々に狂気のみが為せる行為に身を委ねてしまう。チベット仏教の教えもその奇跡も、救いとは結びつかない。そして火葬場が主人公に与える最終的解決の手段。ユダヤ人の悲劇を巡るメタファーが否応無く喚起される。

しかし如何に恐怖に支配される読書であったとしても、ここには何か大事なメッセージがある、その思いだけは頁を繰る毎に強くなる。他人のふりをし続けても、目の前を過ぎて行った小さな災いは、雪だるま式に大きくなって返ってくる。自分は加害者ではない思っていたとしても、何処かで自分の行為の後始末を付けている人は必ずいる。その因果応報的世界観を現代人はどれ程過去から学び現在進行形の歴史の中で共有しているだろう。望むらくは自分の後始末くらい自分で付けたいものだと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2014年9月8日
読了日 : -
本棚登録日 : 2014年9月8日

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