『その「何か」が何なのかは、わからない。それはたぶん事後的にふりかえったときにしか、わからないものなのだろう。わからないなりに、その何かへの期待があるからこそ、本を読む』-『本は読めないものだから心配するな』
ひょっとすると、この引用した文章を読むこと、それがこの本を手に取ったことの全ての意味なのかも知れない、と思うのである。誰かにそう言われたからといって、100%の証明がなされたわけでも、何がどう変わる訳でもないけれど、ああやっぱりそうなのか、と思ってみることで自分の気持ちの整理がなされたようになって、人心地つくような気になるのは悪い感覚ではない。たとえそれが甘えた論理であるとわかってはいても。
それならばそれ以上読む必要もないようなものなのだけれども、根っからの貧乏性ゆえ頁を繰る。すると読書の海の途方もない広さに眩暈がし始め、再び心細い気持ちとなる。なのに、本を読み、そしてこんな文章を書きつけている。何故なのかは、自分でもわからないけれども。
『知らないことについて話すということは、われわれの社会の流行なのか、悪癖なのか。強いられているのか。避けられないのか。必要なのか』-『「隣のアボリジニ」の隣へ』
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- 感想投稿日 : 2011年6月18日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2011年6月18日
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