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心理学・精神世界・自己啓発(Philono)


矢印


きわめて興味深い本だった。新書で、しかも三人の学者の鼎談による本で内容がこれほど刺激的で充実しているとはちょっと信じられないほどだ。著者のひとり安田喜憲の本については、このブログでもしばしば取り上げ、影響も強く受けてきた。彼はあとがきで、「今まで自分ひとりで考えていたアイディアが、鼎談によって何倍にもふくらみ、自分が思ってもみなかったまったく新しい世界が開け」たと語っているが、この本は文字通りそのような豊かな展開と深い洞察にあふれ、何冊かの分厚い専門書を読んだような読後感がある。

ここでは、ムギ作とコメ作の文明を環境変化の視点をふまえてこの本がどのように論じているかを紹介しよう。

四大文明はムギ作を基盤とした文明であった。そのため、これまでの世界史はムギ作を中心に描かれ、コメの文明は不当に扱われる傾向があった。ムギはコメに比べ生産性が低いので多くは牧畜を伴う。しかし近年、中国文明の源流は黄河流域ではなく長江流域にあったのではないかという説が注目されている。そして、長江文明は、牧畜を伴わない稲作文明であり、森の文明であった。

日本史の通説では、弥生文化は朝鮮半島経由で大量の人々が日本列島に渡来したときに始まるとされていた。そうであれば、当然家畜を伴っていたはずなのに実際はそうではなかった。とすれば弥生文化の基本を作ったのは長江からやってきた越人である可能性も高い。

どちらにせよ弥生人が牧畜を持ち込まなかった、ないしは縄文人が牧畜を取り込まなかったことは、日本文化のその後の性格に大きな影響を与えた。牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

また天水農業によるムギ作は、かなり粗放的なので、奴隷に行わせることもできた。しかし稲作は、いつ何をするかの時間管理に緻密さが要求され、集約的なので、奴隷に任せることができない。稲作文明で大規模な奴隷制が発生した例は見られない。さらに、家畜管理の技術と奴隷管理の技術は連続的なものだったろうから、稲作・魚介型で牧畜を行わなかった日本では、奴隷制が発生しにくかったのではないか。

さらにムギ作は、天水農業の下では個人の欲望を解放する傾向をもつという。水に支配される度合が少なく、自分が所有する土地を好きなように耕作できるからだ。一方稲作は、水の管理が重要で、共同体に属して協調しないと農耕がしにくい。その分、個人の欲望は解放しにくいわけだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し、どのような特徴をもったのだろうか。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。


2012年04月20日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2012年04月20日) |



代表的な「日本人論」「日本文化論」とひとつとだろう。1967年初版発行だから『甘えの構造』よりは4年早い。『甘えの構造』の中でも、甘えとの関係でこの本について言及している。

甘えは本来人間に共通の心理現象でありながら、日本語の「甘え」に当たる言葉は欧米語には見られない。この事実は、甘えの心理が日本人にとって身近であるばかりでなく、甘えを許容するような社会構造が日本には存在することを物語る。「甘え」という言葉は、日本の社会構造を理解するためのキー概念ともなるのではないか、日本社会で甘えが重要な働きをすることは、『タテ社会の人間関係』でいうタテの社会構造と一体をなしているいるのではないかと土井は指摘する。

甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本の労働組合が、企業という枠を超えた職種によるヨコの組織になっておらず、職種の違いに関係なく企業単位の組合になっていることは、場や枠を重視する日本のタテ社会の特徴をみごとに現している。

「タテ社会」日本の基本的な社会構造が、企業別、学校別のような縦断的な層化によって成り立っているのに対し、「ヨコ社会」は、たとえばインドのカースト制度や西欧などの階級社会のように横断的な層化をなしている。「ヨコ社会」では、たとえば職種別労働組合のように資格によって大集団が構成され、個人の生活や仕事の場にかかわらず、空間的な距離を超えて集団のネットワークが形成される可能性がある。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。


2012年04月20日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2012年04月20日) |



1971年に出版されて以来「日本人論」「日本文化論」の代表的な著作のひとつとなった本である。

甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

著者は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。著者はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

たとえば「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係するという。すねるのは素直に甘えられないからであり、しかし実際はすねることで甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」は、いずれもすねが高じ、なお甘えられない結果である。ひがむのは、甘えたいのに自分だけが甘えられないと曲解することである。ひねくれるのは、甘えないでかえって相手に背を向けることだが、どこかに甘えの感情があるからそうなるのだ。

ある欧米の研究者は、日本語の「甘え」にあたる心理を「受身的対象愛」という用語で表現し、研究していたが、それに相当する日常語が日本語のなかにあることを聞いて驚いたという。さらに甘えが挫折した結果として起こる特殊な敵意を表す「うらむ」という語もあることを知って、いたく感激したという。

著者は、この他「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」など日本人に馴染みの感情を甘えの心理との関係で分析していくが、ここでは省略する。ここでは最後にひとつだけ「遠慮」という言葉と甘えとの関係を取り上げよう。

「遠慮」という日本語は、現代では人間関係の尺度を測る意味合いで使われるようである。たとえば親子の間には遠慮がないが、それは親子が他人ではなく、その関係が甘えにどっぷりと浸かっているからである。この場合、親も子供もたがいに遠慮がない。親子関係以外の関係では、親しみが強いほど遠慮は少なく、親しみが薄くなるほど遠慮は増す。親友同士は遠慮がないが、遠慮を感じる友人もいる。要するに日本人は、できれば遠慮のない関係がいいと感じ、遠慮し合う関係をあまり好ましいとは思っていない。これも、日本人がもともと親子関係、とくに母子関係に典型的な一体感をもっとも望ましいものとして理想化しているからだろう。


2012年04月20日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2012年04月20日) |

コレキヨの恋文

三橋 貴明

/ 小学館 / 2012年03月28日 発売



これは、予約注文し今日(3月31日)に届いたばかりなのでまだ読了していないが、エンターテイメントとして楽しく読みながら、三橋氏の日本経済についての主張が学べる。大ベストセラーになり、映画化もされて、デフレ下の日本を正しい方向に軌道修正する力になることを切に願う。


2012年03月31日 | コメント(0) | ビジネス・経済 | 読みたい |



人間が持っている不思議な力を、誰でもすぐにできる簡単な実験ので確認できるのが素晴らしい。本に紹介された実験を自分で試して納得できる。著者は宇城賢治師範について学んでいるスポーツライターだが、かつての自分の間違いを率直に認め真摯に学び取ろうとする視点から書いているのが好感がもてる。文章もわかりやすい。


2012年03月20日 | コメント(0) | ★気功(書評つき) | 読み終わった (2012年03月20日) |

できる人は知っている 頭のいい勉強法

箱田 忠昭

/ 日本実業出版社 / 2007年02月27日 発売



こういうノウハウ本は、自分に役立ついくつかの方法が吸収できればそれでよい。本によって、これはいいと思える方法が多く見つかる場合と、それほどでもない場合がある。この本は、それほど多くはなかった。しかしいくつかは見つかった。

たとえば、アメリカの心理学者ズーニンは、「最初の4分間が大切だ」と主張する。最初の4分間を乗り切れば、マインド・セットが出来上がってあとは楽になるというのだ。

私もいやなことは後回しにするクセがあるが、とにかく4分だけやってみようとやり始めると、めんどくさいと思っていた気持ちが消えて、けっこう20分、30分できてしまう。だからとにかく数分だけやってみる。これは忘れずにいたい。

もう一つ、本はいきなり読み始めるのではなく、まず全体をつかんでから読むのが能率的だという。表紙や裏表紙に書かれているセースルポイント→まえがき、あとがき、目次→各章の最初と最後の10行というように全体像に迫っていくという読書法。

私も、高速回転読書法を読書の一つの方法としているが、まず全体像をつかむ方法として章の最初と最後の10行を読むというのはよさそうだ。さらに節の最初と最後の数行戸いうように細部に迫るうちに、重要な個所が見えてきて、そこを重点的に読むなど。


2011年10月22日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年10月22日) |

最短で結果が出る超勉強法 (講談社BIZ)

荘司 雅彦

/ 講談社 / 2007年06月26日 発売



東大文、司法試験などにすべて2年以内で受かったという「カリスマ弁護士」が公開する勉強法。この手のハウツーものは、読んで自分の役に立つところを取り入れればよいわけだが、私にはかなり役に立つ方法が多かった。

たとえばある科目なり分野を勉強するときには、まずは分量が少なくて理解しやすい入門書を何度も回転させるとよいという。回転させるとは、素早く何度も読み通すということ。分量の少ない本を、わからない部分は気にせずに何度も何度も回転させるわけだ。同じレベルの複数の入門書を何冊か読むという方法もあるが、どちらをとるかは好みや、それだけ入門書があるかなど条件の問題だろう。

また著者は、勉強するとき、1時間1単位と決めて、勉強を進め、1時間終了するごとにその時間で何を勉強したかを頭の中で5分間「反芻」したという。この5分間が「黄金の記憶保持作業」となるということは、脳科学の知見からしても理にかなっているだろう。私がこれを応用するとすれば、本を一時間読んだら、5分間でその内容を反芻する。そして関連する目次部分や本の裏の余白などにキーワードのメモを入れていく。インプットの後にアウトプットの練習をしておくわけだ。

著者は、「詰め込みと丸暗記は勉強の王道である」ともいう。人は記憶する作業を続けているうちに記憶力がどんどんよくなっていくからだ。そして記憶力に年齢は関係ない。私も60歳をすぎているが記憶力は徐々に高まっている気がする。記憶する作業を続けているうちに、脳内の神経細胞であるニューロンの数は年齢に関係なく増加するそうだ。その増加に伴って記憶力は飛躍的に向上する。

シュリーマンは語学の天才で、数か月もかからず一つの言語をマスターし、ゆがて十数か国も操れるようになったという。その彼も、最初は記憶力が悪かった。しかし、マスターしたい言語で書かれた一冊の本を丸暗記する方法を繰り返すうちに、信じられないほど記憶力がまし、簡単な文章なら2~3回目を通しただけで覚えられるようになったという。記憶力は、やればやるほど効果が上がっていくらしい。

この他にもさまざまなノウハウが紹介されており、私にはかなり役立つ情報が多かった。


2011年10月22日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年10月22日) |

質問力 ちくま文庫(さ-28-1)

斎藤 孝

/ 筑摩書房 / 2006年03月10日 発売



先に紹介した同じ著者の『コミュニケーション力』は、コミュニケーション全体にわたって、豊富な実践と経験を踏まえ、多くの示唆に富む本だった。

『質問力』は、コミュニケーション力の中の質問力に特化して、日本人があまり得意でない質問力を技としていかに磨くかが、これまた豊かな発想と実践を踏まえて語られている。個人的には「質問力」をみがくグループワークなども紹介されていて役にたった。

著者は、「コミュニケーション」の秘訣は「質問力」にあり、という。
「質問は網だ。しっかり作っておけば、いい魚がとれる」ともいう。実際、聞き方がうまければ、自分に話題が乏しくても、相手の深い話を聞けたり、聴くことで相手をサポートできたり、有益な情報をもらえたりなど、コミュニケーションを深めることができる。

よい質問とは、相手の苦労や積み重ねてきたものを掘り起こすような質問であり、また相手の奥底にあるような経験を引き出すような質問であるという。ともあれ、質問力を意識して会議や日常の対話に臨むか否かで、コミュニケーションの質は大きく変わることが自覚でき、自分もこれからそうしようと思える本だ。

ちょっとした小技が紹介されていつのも役に立つ。たとえば公園など話を聞いている最中にいくつかの質問をメモしておき、その中からいくつかを取捨選択して質問をするなど。


2011年10月10日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年10月10日) |



『森から生まれた日本の文明』では、ユーラシア大陸の文明を「寄生文明」と呼び、日本の文明を「共生文明」と呼ぶ。「寄生」という言葉自体は、かなり批判的なニュアンスが強く、刺激的だが、要するに自然に「寄生」するという意味だ。

乾燥した大草原を舞台とした麦栽培、羊や山羊などの家畜を飼育する草原農耕文明は、早くから階級分化と支配がはじまり、都市文明が生まれた、人間中心の文化は、森林を破壊しながら自然に寄生する文明として成熟していく。

森林を破壊した文明は、メソポタミア文明に端を発し、地中海地域からヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカやオーストラリアにまで拡散したという。黄土高原で生まれた黄河文明もまた、一方的な略奪と地力の搾取によって、その文明を支えた母なる大地を荒廃させ、森林を食いつぶした。

草原の資源が枯渇すると森に依存し、森が枯れれば森を捨てる。この人間中心の自然征服型文明は、わずか1万年あまりの間に地球を支配してしまった。

一方、日本列島は周囲を海に囲まれていることもあり、大陸の諸勢力が侵入することもなく、縄文時代から弥生時代にかけて、森林と共存しながら稲作が成立した。日本では、水田耕作社会を維持するためには、背後の山や丘陵の森林が不可欠とされた。これこそが、森林・自然との「共生」を維持しつづけた日本の複合農業文化であった。

日本文化の基層には、縄文時代以来の森の文化の伝統が流れている。弥生文化がはじまったとき、日本は稲作を受け入れたが、羊や山羊などの肉食用の家畜は受け入れなかった。その理由の一つは、日本の稲作が、羊や山羊などの家畜を持たない長江流域から伝播したからだという。もう一つの理由は、森の文化にとって家畜は天敵であり、それを知っていた縄文人が、家畜の受け入れを拒んだ可能性だ。

家畜は、森の若芽や樹皮を食べつくして森を破壊する。家畜を伴わない稲作文明だったからこそ、日本は豊かな森を維持することができた。また、肉食用の家畜を伴わなかったからこそ、ユーラシア大陸とは違って、人間と他の生物を厳然と区別しないユニークな人間観・生命観を維持することができた。


2011年09月24日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年09月24日) |



他の著者の、コミュニケーションや対話に関する本もいろいろ読んでいるが、書かれている内容や、踏まえられている実践や経験の濃密さは、齋藤氏のこの本が群を抜いている。学生時代の「対話」に費やされた情熱や、大学の教室などでの膨大な実践での経験が凝縮されている。

この中で紹介されたいくつもの方法が、それぞれ独立の本となっている。『偏愛マップ』や『質問力』がその例だ。

現代の若者に欠けている対話やコミュニケーションの力、かつての日本には満ちていたが、現代の教育現場に欠けている身体に深く根差した教育力など、今の日本に欠けている大切なものを取り戻すために、この人の紹介する数々の実践的な方法を、もっと普及させるべきだと思う。


2011年09月24日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年09月24日) |



教育関係者だけでなく、子どもかかわる多くの人に、あるいは子育てに悩む親に広く読んでもらいたい本だ。学級や学校の崩壊が深刻な問題となっているが、著者は長年、中学校の現場で崩壊を喰い止めようと真剣に取り組み、素晴らしい成果を得てきた教師だ。その誠実な取り組みから滲み出てくる文章に深く共感する。著者の実践の大前提は「どこまでも子どもの性善なることを信じ、その成長を心から願う」という姿勢である。そうした姿勢の背景には、さらに「人間は生まれたときから死ぬまでの間だけ生きているような、はかない存在ではない。一人ひとりの個性はもっと深い存在根拠をもつ」というシュタイナーから学んだ死生観がある。そんな教育観、死生観を基盤にして、学級や学校の崩壊を食い止めるための、著者が体験から確認してきた「勘どころ」が多くの実践例とともに、きわめて具体的にていねいに語られていく。そこには、教育現場だけではなく、子どもに対するすべての大人にとって大切な「勘どころ」も含まれる。教師たちにこういう人間観と子どもへの誠実な姿勢、真剣さ、「勘どころ」があれば、確かに学校の荒れは食い止められるだろうと得心できる内容だ。


2011年07月06日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年07月06日) |

武器なき“環境”戦争 角川SSC新書 (角川SSC新書)

池上 彰 手嶋 龍一

/ 角川SSコミュニケーションズ / 2010年09月10日 発売



「京都議定書の例外扱い要請へ 政府、原発事故受け」( 2011/4/5 日本経済新聞)、「国連、日本の温暖化対策見直しに反対を表明」: YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://t.co/83MBw9B via @yomiuri_onlineなどのニュースが流れているが、 もともと京都議定書がいかに欺瞞に満ちた欧米諸国の策略かは、この本の中でも厳しく指摘されている。


2011年04月05日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年04月05日) |

ブッタとシッタカブッタ〈1〉こたえはボクにある

小泉 吉宏

/ メディアファクトリー / 2003年05月 発売



ぶたのブッタとシッタカブッタを主人公にした4コママンガの形をとっていて、とても親しみやすい。しかしマンガといっても、そのなかでさりげなく語られている内容は、 人の生き方についてのとてもとても深い真実に触れている。

精神世界やニューエイジ、東洋思想などに関心のある人たちにはなじみぶかい考え方かも知れないが、そんな考え方を知らない中学生や高校生にどう語るかこまってしまうこともある。このマンガは、かわいいブタと、語られる内容が不思議にマッチしていて、 変な押しつけもなくすんなり心に入ってくる。私の息子や娘(高校生と中学生)も、読めと言わないのに夢中で読んでいた。  

とくに(1)の前半は、シッタカブッタの恋の悩みを中心に語られているから、中学・ 高校生たちは身につまされる話だだろう。「これ、俺のことみたいだ、私と同じね」な どと、笑ったり共感したりしながら、いつしか人生の深い真実に導かれる構成になって いる。

息子や娘だけでなく、身近な多くの人に読んでもらいたいと思った。


2011年04月04日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年04月04日) |

シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))

ハインリッヒ・シュリーマン 石井 和子

/ 講談社 / 1998年04月10日 発売



『古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)』であまりに有名なシュリーマンが、トロイア発掘(1871年)以前に世界漫遊の旅に出て、幕末(1865年)の日本にも上陸し、旅行記を残していたのである。翻訳(石井和子)の素晴らしさもあってとても読みやすく、内容も興味尽きない。素直に偏見なく観察し、理解し、正確に記録しようとするシュリーマンの強烈な好奇心がにじみ出ており、こうした精神のしなやかさや探求心が、トロイア発掘につながっていくのだとうことが納得できる。

シュリーマンはいう、「これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激しきった面持で日本について語ってくれた。私はかねてから、この国のを訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。」当時、日本を訪れた外国人たちが、その印象をどのように語っていたかが分かる一文である。

シュリーマンは、横浜から江戸に行く。当時、尊王攘夷運動が活発で外国人にとって江戸はかなり危険だったが、江戸を見たいという思いの方が強いのである。

浅草寺を訪れ、あるお堂の仏像の傍らに「おいらん」の肖像が飾られている事実に驚愕し、呆然としている。「日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。」「それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた。」

仏像と「おいらん」を並べてしまう日本人のタブーのなさ、宗教的ないい加減さ、というかおおらかさは、シュリーマンにとっても理解を超えていたのだろう。しかし、以下の記述からもわかるように、短い滞在(約3ヶ月)にも関わらず日本人の宗教心について全体的に的確にとらえている。

「日本人の宗教心について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺の民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。」

ここで「真の宗教心」は、キリスト教を判断の基準としており、あとで紹介する彼の文章と合わせて考えると若干の偏見を感じるが、シュリーマンが観察した状況は、江戸時代も現代もほとんど変わっていないようだ。宗教儀式が娯楽と渾然一体となり、宗教なのか娯楽なのか習俗なのか分からないという状況も、今と変わらない。

シュリーマンは、将軍と大名の関係に触れ、大名が臣下として服従していながら将軍に対抗する姿勢ももつと言っている。そして日本の社会システムについて次のようにいう。

「これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕作された土地が見られる。」

ここで「労働者階級は無である」というのは、もちろん政治権力としては無であるという意味だろう。この本はフランス語でパリで出版されている。フランス革命時の「第三身分は無である」が意識された表現かもしれない。注目すべきは次の文章で、にもかかわらずどの階級でも、区別なく平和、満足感、秩序、勤勉さ(よく耕作された土地)が行き渡っているというのである。つまり、先に挙げた清潔さとともに「日本の長所」としてまとめた項目のいくつかが、シュリーマンの報告から浮き上がってくるのである。

最後に「日本文明論」という短い章で、シュリーマンは「日本の文明をどう見たか」をまとめている。

「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明圏以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だがもし文明という言葉が次のことを意味するならば、すなわち心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教――キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させるようなことを意味するならば、確かに本国民は少しも文明化されていないと言わざるを得ない。」

全体にシュリーマンは、当時の日本の姿を、ヨーロッパ人の偏見からきわめて自由に、好奇心と好意と尊敬に満ちた明晰な眼で観察している。しかし宗教的な観点では、やはりキリスト教の偏見から抜け切れていない。要するに彼は、宗教的な面以外では日本人は高度に文明化しており、教育はヨーロッパより普及しているが、われわれのようなキリスト教をもっていない以上、真の意味で文明化しているとは言いえない、と言っているのだ。

一瞬垣間見れるこのような限界は、にもかかわらず、この本の価値を少しも減じていない。彼が描き出す、当時の日本の現実のなまの姿が細部に渡って生き生きと輝いているからだ。


2011年01月21日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年01月21日) |



最初にこの本の中の代表的な心理学実験を紹介する。画面上に5人の人物を示し、その中心にいるリーダー格の人物の表情(怒り、悲しみ、喜びなど)から、その人物が感じていると思う感情の強さを実験参加者に判断してもらうというものだ。ただしある画像では、中心人物が笑顔を見せ、他の4人も笑顔だが、他の画像では中心人物は笑顔なのに他の4人は怒っているという違いを作っておく。参加者には、あくまでも中心人物の表情からその感情を判断してもらうよう念を押した。

結果は、日本人の実験参加者は、背景の人々の表情に影響されて中心人物の感情を判断する度合いが強かったという。これに対してアメリカ人の参加者は、周辺人物の表情からの影響をまったく受けないで判断をしたという。さらに画像を見ているときの視線のパターンを測定したところ、日本人の場合は、周辺への注視が平均して15パーセントあったのに対し、日本在住の欧米人の場合は、周辺への注視はほとんどなかったという。総合的な結果を見ると、周辺の人物への注視度は、日本在住の日本人で一番大きく、続いて東アジアからカナダへの留学生、東アジア系カナダ人、そして最後にヨーロッパ系カナダ人とう順が確認されたという。

この実験結果をうまく使って出版社が作ったのが、『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人』というこの本のタイトルなのだろう。

この実験は「文化心理学」の立場から、その考え方を立証するために行われた実験のひとつである。文化心理学では、個々人の信念や考え方の差もあるだろうが、それを超えた文化による差も大きいと考える。日本をはじめとした東アジア文化圏と、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そして西欧など欧米系文化圏とに二分したときに、それぞれの文化圏に特徴的な考え方やものの見方が見いだせるのではないか、という予想のもとに研究がすすめられている。東アジアと欧米という二つの文化圏で主流の世界観が、私たちのものの見方に影響を及ぼす可能性を心理学実験により実証しようとしているのだ。そして過去十年の各国での継続的な研究から、「こころと文化の切っても切れない関係」を示す有力な証拠が、数多く積み上げられているという。

文化心理学では、東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」、欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義し、こうした思考様式の違いが私たちの物事のとらえ方に影響を及ぼしていると主張する。

分析的思考様式は、世の中のさまざまな事物はすべて最少の要素にまで分割することができ、その要素間の相互作用や因果関係を理解すれば、物事の本質を理解できるとする考え方だ。科学技術の基礎となっている機械論的な世界観といってもよい。男性原理の世界観だともいえる。

一方、包括的思考様式は、物事の本質を理解するためにはまずその全体を把握する必要があるとする考え方だ。これは東アジアで花開いた老荘的、大乗仏教的な世界観が反映されている。機械論的な世界観に対して生命論的世界観といってもよい。まず全体があって全体のなかで個々の部分も意味をもってくるというとらえ方だと思う。

この東西の世界観の違いは、双方の医学の考え方の違いで説明するとわかりやすい。西洋医学は、どちらかというと体を機械のようにとらえ、その部品をなおすことを主眼とするようなイメージだが、漢方などでは体全体のゆがみやバランスの崩れから各症状をとらえて、全体的視点からの治癒をめざすようだ。

この二つの世界観の違いは、「自己観」の違いとしても現れるようだ。欧米文化圏の人々は、「人とは他の人やまわりの物事とは区別されて独立に存在するもの」という「相互独立的自己観」をもつ傾向がある。一方、東アジア文化圏では、「人とは周囲の人々との役割や立場を介した関わりの中で成り立っているもの」という「相互協調的自己観」が多くの人々に受け入れられている。

そういう自己観の違いから、東アジア文化圏の人々に比べ欧米文化圏の人々は、自分を三人称的に(第三者の目で)見ることに慣れていないだろうという予測ができるが、実験結果はその通りであったという。理想の自分像と現実の自分像の間にどれほどずれがあるかを尋ねる実験では、日本人はそのズレを充分に認識していたのに、アメリカ人はズレを認識する度合いが低かったのである。つまり自分を第三者の目から客観的に見れない傾向が強いということだ。

◆他にも興味深い心理学実験がいくつも紹介されている。文化心理学の画期的なところは、昔から言われていた東西の世界観の違いを、実験心理学的に実証的に確認したことだろう。しかも、その違いが私たちの日常的な物事の認識の仕方や、対人関係の認識の仕方、自己理解の仕方にまで、影響を及ぼしていることを実証的に示したことであろう。

ただ、欧米文化圏、東アジア文化圏という分け方はかなり大雑把で、欧米でも地域差はあるだろうし、東アジアでも中国と韓国、日本とではかなりの違いがあるだろう。その辺の違いは、実証的に確認されているわけではない。農耕・牧畜的で民族間の紛争を繰り返した大陸の人々の世界観と、稲作農業中心で他民族による侵略のほとんどなかった日本人の世界観の違いという視点からの、実証的な差異はほとんど見えてこない。

しかし、こういう手法を用いて研究を重ねるならば、東アジア文化圏の中での地域差も実証的に明らかにされていくのではないか。


2011年01月10日 | コメント(0) | ◎最新の書評 | 読み終わった (2011年01月10日) |


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