ゆうじょこう (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2016年1月28日発売)
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感想 : 23
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南の小さな島で、貧しい漁師の家に生まれたイチは、15歳で熊本の遊郭に売られる。
広い海で大きな海亀と泳ぎ暮らしていた少女は、きらびやかな牢獄で囚われの日々を送ることになる。
鄙で生まれ育ったイチは、訛りがきつい。「ください」は「けー」、「ここへ」は「こけー」、「これ」は「こー」、「食え」は「けー」、「来い」は「こー」。口数の少ない少女が必要最低限のことをしゃべると「こけー、こー、けー、こー」とまるでニワトリのようであった。
体は真っ黒に日焼けし、行儀も何もなく、小柄で痩せてサルのよう。
どたばたと歩き、訛りを隠すための遊郭独特の言葉もまったく身につかない。
およそ人間らしくない野生児が、突然、絢爛豪華な世界に放り込まれる。見た目は美しい極楽のようだが、その実そこは、性と金に支配される底なしの地獄だった。

島で育ったうえ、まだ子供であるイチは、島の外の広い世界のことは何も知らない。だが彼女には強靱でしなやかな身体とそれに見合う「魂」があった。
女紅場(じょこうば)と呼ばれる遊女たちの学校で、日記を書くことを教えられた少女は、つたない国言葉を重ねて、汚い字で、日々のあれこれを綴る。
有無を言わせぬ破瓜。望まぬ務め。不人情な客。かさむ借金。身勝手な親。
理不尽な出来事を睨みつけ、叩き付けるように文字にしていく。
それは世界をぶった切ろうとする、小さなしかし鋭い刃のようであった。

イチを見守る2人の女がいる。
1人は、イチを預かり、面倒を見ることになった姉さん格の東雲(しののめ)。店一番、いや廓一番の売れっ子で、遊女のトップクラスである「太夫」である。時には菩薩のように、時には魔物のように、底知れぬ美しさを持つ。
いま1人は、女紅場の先生である鐵子。遊女上がりである。幕臣の家の出で、御維新で家が傾いた。大家族が田舎に引っ越す工面をするため、長女である鐵子が身を売ることになった。つらい年季が明けた後、遊女たちに文字や書、算術を教える先生の職に就いた。
非常に対照的な女たちだが、いずれも凛と芯が強い。
激動の時代の中、女たちは自らの境遇や世の中を見据える。
世界の価値観が揺れ動く中、女たちは考え続ける。自分たちはどういう場所にいるのか。ここで何が起こっているのか。これは「正しい」ことなのか。
イチはこの2人をつなぐ架け橋となる。

東雲は太夫として何不自由ない暮らしを送っている。艶然と男たちを意のままに扱い、楼を支え、多くの者を養う金を稼ぎ出す。それでもなお彼女は「売られた」身で、「賤業」に就いていることには変わりはない。
鐵子は若き日、福澤諭吉の「学問のすすめ」「新女大学」に感動した。だがそれは読み込むにつれて、彼女を落胆させる。すべての人が平等と謳いながら、裏には女、特に遊女を低く見る偏見が渦巻いているのが彼女には見えた。
明治維新という激動の時代の中、それまでの世界を支えていた制度や価値観が崩れ、遊郭も揺れた。キリスト教的な思想による外圧もあった。人権意識の高まりもあった。
物語のモデルとなった熊本・二本木では、1900年(明治33年)、遊女による大規模なストライキが起きている。
そんな中、遊女たち自身はどう暮らし、何を思っていたのか。著者の濃密な筆は、力強く、ときにユーモラスに、ときに壮絶に、女たちを描き出す。

イチは日記を綴り続け、考え続ける。その国言葉は稚拙かもしれないが、強い。彼女は最後まで、国訛りを捨てない。それは、自分の言葉で考え、自分の言葉で表現する術を捨てないということだ。
その考えがたどたどしくても、ときに浅薄でも、身のうちから発した思想は強い。それは誰にも奪われぬものだから。
彼女は最後に、自らの意志で海に泳ぎ出す。荒海かもしれない。生き延びることは叶わぬかもしれない。けれど、決めたのだ。
びんと強靱な尾びれを振って1匹の魚がゆく。その潔さがまぶしい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: フィクション
感想投稿日 : 2016年3月31日
読了日 : 2016年3月31日
本棚登録日 : 2016年3月31日

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