アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 新潮社 (2013年3月29日発売)
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感想 : 25
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著者は、1970年、ニューヨーク州ロングアイランドのユダヤ教正統派コミュニティで生まれ、敬虔なユダヤ教徒として育つが、後に棄教している。
民族としてのユダヤ人に対する、内からの目と外からの目を併せ持つ存在といってもよいのかもしれない。
本書に収録されているのは、8編の短編。いずれもユダヤ人が中心に据えられている。

やりきれなさを感じさせる物語が多い。
表題作<アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること>は、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』へのオマージュになっているという。対照的な2組のユダヤ人夫婦が語り合う。描写は比較的軽快だが、幕切れでは、罪がない「はず」のゲームが発端となって、人と人の間にぴしりと亀裂が入る瞬間が描かれている。亀裂の奥には怖ろしいほど暗い深淵が覗いている。
<僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか>は、ユダヤ人のいじめられっ子たちvs反ユダヤ主義のいじめっ子たちといった構図で、コミカルなシーンもあるのだが、やりきれなさが勝って笑えない。最終的に、ささやかな復讐はなされるが、爽快感はない。
最もやりきれないのは老人たちのサマー・キャンプでの出来事を描く<キャンプ・サンダウン>。やりきれない上に取り返しの付かない話である。
<読者>は、かつてはもてはやされていた老作家と彼の熱狂的なファンである老人を描く。この短編集の中で最も後味がよいのはこの話だったと思う。
<若い寡婦たちには果物をただで>は、ショア(ホロコースト)を生き延びたが、あまりに苛酷な体験をしたために、心のある部分が死んでしまった男の話である。男はこのため、自らも犯罪に手を染めている。しかし、この話は、ある意味、再生を描いているのかもしれない。「悲劇」が存在したことを認めつつ、痛手を受けたものに寄り添い、集団として乗り越えようとしているようにも思える。

個人的には<姉妹の丘>を一番興味深く読んだ。ヨルダン川西岸に入植した2組の家族の物語である。1人の女の子をめぐる2人の母の、いささか寓話めいた話だ。

裏表紙のキャッチコピーには、「すみずみまでユダヤ人を描きながらどこまでも普遍的であることの不思議」とある。
本短編集の一番の美点が、「普遍的」なものを描いていることなのかどうか、自分には判断がつかないが、「ユダヤ人であること」「戦禍の記憶を受け継ぎながら生きていくということ」はいくばくなりとも疑似体験できたように思う。そういう形で思いの片鱗を共有できることが、すなわち普遍的であるということならば、それはその通りなのかも知れない。


*そういえば、カーヴァーの著書を訳した村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』という本を書いていたが、これも『愛について・・・』から取ったタイトルだろう。

*表題作の落とし方は、何となく『ヴァレンタインズ』(オラフ・オラフソン)を思い出させる。ユダヤ系作家の作品からアイスランド系作家の作品を思い出すというのも少々不思議ではある。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: フィクション
感想投稿日 : 2013年7月5日
読了日 : 2013年7月5日
本棚登録日 : 2013年3月1日

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