真説「陽明学」入門 第2版: 黄金の国の人間学

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  • 三五館 (2003年10月1日発売)
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・陽明学とは、他人との関わり合いである社会生活の中に身を置き、仕事上や家庭上でのさまざまな苦難困難を克服するという工夫や努力の中でのみ、心が鍛え上げられるのだ、という現実生活に密着した現世重視の実際的な教えなのである。

・山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。まずは背伸びをしないで、無理なく自分にできるところから実践を心がけること。と同時に、心の日々の陶冶を怠らないことが我々の当面の課題である。私一人ぐらい、という消極的で、投げやりな生き方は、自分の人生の充実感を高めてくれるはずもない。そして私一人ぐらい、という考え方や、私の心の問題と自然環境や社会問題とは関係ないとみなす考え方の根底には、世界を「私」と「私でないもの」という対立する二つのものに分ける考え方が潜んでいるのである。

・私とあなた、人間と自然、心の内側と外側、という区別を当然のこととして生きている。しかし陽明学は心の内と外、自分と他人との間に区別を設けることをかたく戒めている。ものごとを分けて考えないことが、利己主義を克服することにつながり、博愛の精神や「万物一体の仁」につながると主張している。

・知行合一…知と行は別々のものではない。だから少しでも思念が生じれば、それがすなわち行ないである。世の中やそれぞれの人生を混乱に陥れているのは、ものごとを二つに分けて考えるところに原因している。

・陽明学とは、相対立する二つのものによってできているように見えるこの世界が、実はひとつのものである、という世界観なのである。見るものと見られるもの、人間と自然などのように、二つのものを対立し競合させていく考え方の克服であった。ということは、心と身体の統一と人間性の回復を目指したのである。

・いまの人の学問では、知と行を分けて二つのものとするから一念が動いた場合、たとえそれが不善であっても、実際の行動の上に現わさなければ罪悪でないとして、あえてこれを禁止しようとしないことがある。このような考えを否定して、人に一念が動いたとき、それはすなわち行なったことであることを、よく知ってほしいから。念慮が動いたときに不善があれば、この不善の念を克服させて、必ず徹底的にその一念の不善が胸中に潜伏して、残ることのないようにさせること。「行」という場合、情が動くのも「行」に含まれる、とするのが陽明学である。

・何事につけ、ものごとを分けて考える、そのことに問題がある。知と行を分けて考えることが、心に邪悪な考えがあっても行わなければ良いとする考えにつながり、心の内を改めようとはしなくなるのだ。『大学』では、「君子は必ずその一人を慎む」という。誰にも見られていない一人でいるときこそ、修行に勤めなければならないという。言い換えれば人から見られているからきちんとする、見られていないからだらける、という区別を設けるのは、ものごとを分ける考え方の弊害に陥ってしまっているのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2017年5月30日
読了日 : 2017年5月30日
本棚登録日 : 2016年7月24日

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