子どもが見ている背中: 良心と抵抗の教育

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  • 岩波書店 (2006年10月13日発売)
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感想 : 6

先週みにいった映画「"私"を生きる」。十三のシアターセブンでの上映は延長になり、いまのところ3/2(金)まで(3/3以降も再延長があるかもしれないとのこと)。

自由にものがいえること、人として大切にされること、それが東京都の公立学校ではぎゅうーっと縛られていっている状況を追ったドキュメンタリー。大阪も、まったくもって他人事ではなく、そして、映画を見て思ったのは、「これは、ほんとに他人事じゃない、どこの職場でもありうる」ということだった。

私が働いていたかつての職場はハラスメントのひどいところだった。職場の会議や組合交渉で、「それはおかしい」と思うことはいろいろと言ってきた。でも、私もかなり参ってしまい、一時期はご飯があまり食べられず、じわじわと体重が減った。「ほんまにウソをつく人っておるんやなー」と信じられない思いもした職場だった。それ以前の職場でも似たりよったりのことはあったものの、「平気でウソをつく」人が出てきたのは、ほんとうに堪えた。

子どもが自由にのびのびと気持ちを言い、人をたいせつにし、ともに生きる、もちろん大人も自由に生きられる、そういう社会は、きちんと注意深く守っていかないと、あっというまにおかされてしまう…とこわさを感じ、でも、映画に登場する根津さん、佐藤さん、土肥さんの、声を出し、行動する姿に励まされる思いだった。

根津さんのことは『We』のつながりを通じて、そして根津さんの本も読んで、すこしは知っていた。この本は、佐藤さんのことが書かれていると知って、借りてきた。映画もそうだったが、佐藤さんをはじめ、野田正彰が聴き取った教師たちの苦悩は、読んでいてうっとくるものがあった。自分があの職場でほんとにキツかったことを、思い出すところもあった。

▼音楽は、実は人間の根源的な表現であり、喜びである。…音楽には、言葉以上に、自分が生きていることの喜びを表現し、それを伝える力があると思った。生きていることの喜びを、演奏する人間が伝えるのと同時に、聴いている人と一緒になって感じ合うことができる。(p.54)

大学生だった佐藤さんは音楽の優れた表現力にあらためて気づき、教育実習で子どもたちの感じる力のすばらしさを知り、教員になりたいと思った。音楽の喜びを子どもたちに伝え、感動を共有することが佐藤さんの生きがいでもあった。子どもたちには、音楽は内面の直截な表現であることを伝え、君が代についても授業のなかで「強制はない」「自分の行動については、皆の自由です」と話してきた。

音楽専科の教師として、そしてキリスト者として、「君が代」伴奏を拒否した佐藤さんに、執拗な"指導"といやがらせ、差別的な取り扱いが続く。

佐藤さんに職務命令を出し、ろくに話もきかず、強圧的な"指導"をくりかえす校長とその背後にある都教委のやり方を読んでいて、私は「平気でウソをつく」かつての上司のやり方を思い出さずにいられなかった。気に入らないものを排除しようとすることに、この人たちはこんなにも情熱を傾けられるのだとぞっとした。そして、積極的に異を唱えないものには、奇妙なまでに親切だった。

この本のIV章「思いを打ちくだかれる教師たち」には、とりわけ10.23通達(2003年10月23日に、都教委から出された「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」)以降に、職務命令として強制され続けてきた日の丸の掲揚、君が代の斉唱、そして"事故"を起こした者に対する指導、再発防止研修等々の絶えざる抑圧によって、教師たちがどのように心身をすりへらしているか、壊れかけているかが書かれている。ここで聴き取りの対象になった教師は、たまたま野田の上京する日に休みをとれた人であって、特に選んだ人ではないという。

佐藤さんの話と同様、読んでいてつらかった。職場のなかで、もうしょうがないという雰囲気があるということ。それは、言っても無駄だ、言っても仕方がないのだという思いに、多くの人がなっているということなのだろう。「言っても無駄、仕方がない」という先生が多いなかで、「自由に、自分の思うことを言ってみよう」という子どもがいられる場所があるのかどうか。

1999年2月、広島の世羅高校で校長先生が自殺した。ちょうど私が広島に住んでいたときだった。学校で取り組んできた同和教育と、身分差別につながるおそれもある君が代の歌詞とは整合しないと、卒業式での君が代斉唱を拒んだ校長先生の死は、しかし、全く逆に利用され、国旗国歌法が成立するきっかけとされてしまった。

その話と、「心のノート」配布に象徴される"心の教育"が学校を押しつぶしている現状、教育基本法の改正についてなどがこの本の前半では書かれている。その傾向を、著者の野田正彰は「心理主義的ナショナリズム」とよぶ。「子どもたちの問題がすべて心理的に捉えられると、子どもの社会への批判が阻害される」(p.24)というのは、子どもに限らず、大人にとってもやばいと思う。

1998年の中教審答申、1999年の国旗国歌法成立、2002年の非合法国定教科書というべき「心のノート」配布、2003年の都教委による10.23通達、2006年の教育基本法改正。

野田がこまかく解説するように、曖昧な言葉、意味不明で、論理は飛躍し、明晰とは対極にある文章群。
▼いよいよ「国を愛しているか」、「伝統を大切にしているか」、尋ねられる時代になった。どんな国なのか、国とは何か、どんな伝統なのか、疑問を抱くことは許されない。民衆の抑圧と他国の侵略の歴史は意図的に忘却され、今ある社会病理も無視される。虚仮[こけ]の伝統は家族の和、学校の和、郷土の和を唱和させる。学力低下論争に隠されて、文化と教育が一体となって、国家主義へ進んでいる。(p.25)

巻末で、野田は「大人が子どもからどれだけ多くのもの、貴重なものを得ているか」、子どもとの交流から得られる生きる力や喜びを、命の温かさ、柔らかさを書きとめ、この社会は子どもたちから生きる喜びを得ているだろうかと問いかける。

この現状が変わる可能性はあるのかと考えると、ゼツボー的な気分にもなるが、仕方がないとは言いたくない。

(2/15了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 図書館で借りた
感想投稿日 : 2012年2月16日
読了日 : 2012年2月15日
本棚登録日 : 2012年2月15日

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