図書館では本を返して、それと交換のように予約本を借りることが多いけれど、本の確保や回送のタイミングで、本を返しても出てくる本がなく、貸出カードにちょっとスキマができるときがある。
月曜も、あると思った本がなかったので、ちょっと本棚をぶらぶらした。なんか小説を借りよっかなーと、小説の棚へ行き、重松清の単行本はたくさんあったものの、やたら厚い本が多かったので(重そう…)と敬遠し、文庫棚を見ていると、この『小さき者へ』があった。抜いて、裏表紙の紹介をちらっと見ると「お父さんが…「家族」と「父親」を問う全六篇」とあり、『かあちゃん』読んだとこやしなー、父ちゃんを読んでみるかなと借りてきた。
表題作で、息子に出せない(出さない?)手紙を夜な夜な書き続ける父親は「来年四十歳になる」。三九歳で十四の中二の息子がいる、それは十分ありうることだと頭ではよくわかるが、すでに不惑を迎えている自分は(うわあ)とちょっとびっくりする。
もう20年くらい前、ご年輩の女性たちに話を伺う仕事をしていた頃に聞いた話の断片を今もときどき思い出す。ある女性は、子どもをもつことで、親はいつか、子どもに頭を下げるのだと言っていた。子どもに頭を下げるために子どもをもつわけではないだろうが、親は子どもに教えられて、誤りを認めるときがくる、というような話だった。
20代の半ばころからだったか、ずっと、うっとうしいほどだった親が、小さく感じられるようになった。親のようにはなりたくない、と頑固なほどに思っていたのは、それとともに少しずつほどけ、なんやかや言っても親に似ている部分を自分のなかにみつけて、そうはなりたくなかったような、しかたないかと思うような気持ちを感じるようになった。
親のほうはどうだろうかと思う。
母にはもう訊けないが、子どもという自分とは別の人間を、どこかで自分の思うようにしたかったのではないかと、今も父の中にはたまに感じて、それをたたきのめしたいほどの気持ちに駆られる自分もいる。
文庫の巻末には、華恵が書いた「小さき者から」という解説が収められている。「徹底的に壊れた女の子の姿を、いつか描いて欲しい」と三年前の日付で華恵が書いている。
重松清がいつかそういう話を書いたら、それはぜひ読んでみたい。
- 感想投稿日 : 2009年12月24日
- 読了日 : 2009年12月24日
- 本棚登録日 : 2009年12月24日
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