むかーし読んだ本を、久しぶりに借りてきて読む。この人の本は『同化と異化のはざまで―在日若者世代のアイデンティティ葛藤』や『現代若者の差別する可能性』など、同じ頃に出た本をいくつか読んでいる。
この本の「若い世代」は、1950~1960年代の生まれ、著者を中心とした聞き取り調査がおこなわれた1980年代末の時点で20~30代だった二世・三世の人たちで、この本では10人の事例が紹介されている。
今回読みなおした私の関心は「名前」だった。
創氏改名によって、朝鮮の「姓」を、日本式の「氏」につくりかえることを強要された際、通名(日本名)に民族姓を織り込んだ例が多いことは知っていたが、「通名にはあまりない」タイプの氏もあるし、若い世代では朝鮮の名付けや結婚のルール(父系血統主義にもとづく)を必ずしも踏襲しない、いわば"日本式" の名がみられる。著者の言い方を借りれば「『本名』自体が『日本的な名前』になり、必ずしも典型的な『民族名』とは言いがたくなっている」(p.63)のだという。
また名前の読みも、通名ではなく「本名ひとつ」で暮らしている人も、それを朝鮮語で読む名(金嬉老を「キムヒロ」と読むような)と、日本語読み(金嬉老を「きんきろう」と読むような)と、自分には「二つの名前」があるという場合もある。
こないだ読んだ『越境の時』で、金嬉老事件のあらましを書いた最初に、「金嬉老は、本名さえ曖昧な人物だった」(p.185)とある。
実父の名や母の再婚相手の名に、民族名と通名が混じり、さらに朝鮮語読みと日本語読みがあって、それらを数えれば「七つの名前を持つことになるだろう」というのだ。裁判所の記述でさえ「金岡安弘、金嬉老こと権嬉老」と三つが書かれているという。
名前がいくつもある、というのは、名前を奪ったことの結果なのだと、気づかされる。それは、場面にあわせて好きな自分を選ぶというようなことでは決してなくて、自分は誰なのか、「ほんとうの自分」はいったいどこにあるのかと問いをうまずにいないだろうと思う。この本のサブタイトルにある「アイデンティティ」の問題が、「名前」に象徴的にあらわれていると思う。
この本のタイトルや本文で一貫して「在日韓国・朝鮮人」が使われているのは(そして代名詞には「彼ら/彼女ら」が使われているのは)、1990年前後の"政治的な正しさ"の言葉づかいかなあと思った。
- 感想投稿日 : 2010年11月13日
- 読了日 : 2010年11月9日
- 本棚登録日 : 2010年11月9日
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