自然体のつくり方 (角川文庫 さ 42-2)

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  • 角川書店 (2007年11月1日発売)
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感想 : 15

身体の中心感覚は、心理的な安定感につながっている。深い呼吸で身体に中心を感じとることができると、心理的・精神的にも安らぎや充足感が生まれやすい。ストレス状況にあるとき、私たちは肩に力が入り力みやすい。みずおちは硬くなり、呼吸は浅くなる。そうした力みによってストレス状況を拒否しようとするわけだが、力みによってかえって適切な行動がとりにくくなるので、結果として実際には、いっそうストレスは大きくなる。
ここの看護プログラムで特徴的なことは、患者さんとのあいだにサインのルールを積み重ねていくというやり方である。はじめは簡単なことから行なう。もし「まばたき」だけができるとすれば、「イエスの場合は一回だけまばたきを、ノーのときは二回まばたきを」といったルールを定着させていく。通常ならば、言語的コミュニケーションができなかったり、大きな身振りができなかったりするだけであきらめられてしまうケースにおいても、わずかでもレスポンスできるものがあれば、そこにコミュニケーションを成立させ、蓄積していく。こうした積極的なサイン増幅への意志が、より高度なコミュニケーションをも可能にしていく。応答はほとんど不可能に見える人たちが、それぞれにわずかに残されたレスポンスの可能性を拡大していくプロセスは感動的である。
自然なコミュニケーションの構えは、さまざまにありうる。文化や民俗によっても異なるであろうし、個人の特性によっても異なってくるであろう。東洋の伝統的な身体技法を基盤にした「技としての自然体」が、コミュニケーションの基礎として唯一絶対というわけではもちろんない。しかし、戦後半世紀以上を経た現在の日本の「関係としての身体」のあり方をみるととき、生の構えの基本が文化として軽症されてこなかったためのマイナス面を痛切に感じる。みんなが一度、自然体の感覚を主題として体験すべきときにきている。
下半身は大地と結びつきを安定し、上半身は中心軸が立ちながらも肩の力が抜け、リラックスしている。息は深く、意識は落ち着いていて、しかも集中している。こうした身心の状態を、自然体という身体文化としていちどしっかりと身につけておけば、一生の財産となる。
みんながかけ算の九九を当然のように技化しているのと同じように、自然体や丹田呼吸法を技として身につけることは、けっして不可能なことではない。将来にわたる文化的な価値からみれば、身体文化の技化には莫大な価値がある。言うまでもなく、呼吸などは、生涯つねにおこなうものだからである。
もっとも重要な身体感覚を、できるだけシンプルに技化すること。
たとえば、高速で回転するコマが自然体のイメージである。大樹のようにどっしりとしているイメージとともに、高速で回転しているがゆえに軸が保たれ、強い安定感をもっているというイメージもまた、自然体には適している。高速で回転するコマには、高い集中や覚醒がイメージとして含まれるからである。一見、静かで止まっているようにさえ見えるけれども、じつは高い集中に入っている。そうした身心の状態が、自然体の特徴である。
みずおちが感覚として主題化されにくに現在においては、<みずおち感覚>という言葉をあえてもちいて、これを意識化することには意味があると考える。このみずおち感覚を技法としてはっきりと定式化しているのが、野口晴哉による野口整体である。野口整体の基本は、活元運動だ。活元運動は、だれでも眠っているときに寝返りなどで自然にからだを動かして身体の調整をするように、自分の身体の自律的な調整機能を活性化させる運動である。
ウォーキングでもランニングでも、スポーツの基本姿勢でもよい。それを大量に反復することによって、自然体の基礎は養われる。自然体を静的な構えとしてだけ捉える必要はない。激しい動きのなかで保たれる自然体が、理想である。基本の動きを大量に反復練習することの意味は、もちろんその基本の技術を技化することにあるわけだが、同時に、さまざまな動きに必要な中心軸を養うという目的もあわせもたせることができる。むだな力を抜き、中心の感覚を優先させて動くコツは、さまざまな動きの基礎感覚として重要なものである。
自然体にせよ、アレクサンダー・テクニークにせよ、重要なことは、自分のからだの緊張についての鋭敏な感覚をもち、認識することである。バーバラ・コナブル、ウィリアム・コナブルの『アレクサンダー・テクニークの学び方』(片桐ユズル・小山千栄・訳/誠信書房)によれば、ボディ・マッピング・ワーク(からだの地図づくり)が重要だということである。自分のからだの動きについて、正確な地図を描くことができるようになることが、からだの使い方をよくしていく基本とされる。
質のよいコミュニケーションは、たがいの中心を奪いあうどころか、むしろそれを養成する。マインド・コントロールのように、相手のアイデンティティや中心を根こそぎ奪いとってしまうやり方は、コミュニケーションとは呼べない。お互いのあいだに新しい意味が生まれるクリエイティブな関係が築かれたときには、双方ともに自分の中心がしっかりとする充実感を味わうことができる。胎にぐっと力が入るような充実感だ。腰がぐっと決まって、新しく何かをやる気力が生まれるような対話がある。
自然体のあり方にしても、自然体が日常の構えとしてきちんと根づかなかった背景には、武道のような特殊な領域にその身体技法が限定され、日常生活とのあいだの距離が開きすぎていたことがある。能や歌舞伎にしろ、武道や茶道にしろ、それぞれはひじょうにすぐれた身体文化を有しており、精神のかたちをつくるうえで大きな機能を果たしている。そうした芸事を日常生活にとり入れることによって、日常生活が変わることはありうる。
からだで関わられれば、からだで関わり返すようになるということである。生徒のほうにだけ積極的な表現を求めるのではだめである。まずは教師自身が、からだ全部を使って相手のからだを刺激していくことで、生徒のからだも動きやすくなる。つまり、ふりかけをかけて教室全体をいっそうおいしいご飯にするのは教師のからだだということが、この明確な結果によって明らかになった。
言語的・精神的活動においても、上手な抵抗とそうでない抵抗がある。室のよい質問は、相手の思考力をより深めるものである。難しすぎてもやさしすぎても意味がない。相手の力をうまく引きだす、ちょうどよいレベルの質問の設定の仕方というものがある。これは、相手の現在の力に完全に合わせたレベルということではなく、現状よりも少し上の力を想定して、それに合わせて抵抗を設定するということである。こうした「上手な抵抗をかける」という動きを、身につけるべき技としてまず認識し、それを身体活動において実感し、そのうえで他へ応用していくというのが、これから述べる練習のねらいである。
【ゲーム】まかせるという積極的受動性を体感するには、目をつぶるのが効果的だ。2人一組になって、片方が目をつぶり、もう片方がその手を引いてさまざまなものを触らせて歩く、「ブラインド・ウォーク」というメニューがある。これはふだん気づかないまわりの世界のさまざまな側面を、実際に触れることによって戦線な気持ちで捉えることができるおもしろいメニューだ。私たちの視覚はあまりにも強力なので、いちいち触れてみなくてもわかっていると思いこみがちだ。しかし、実際に目をつぶって触れてみると、そのものが違った様相で現われてくるのに驚く。自分が生きている空間性も違ったものとして捉えられ、新鮮な気持ちになる。ふだんは気づかなかった匂いや音にも敏感になる。こうした状態のときには、手を引いてくれる人に対しても積極的な受動性ができており、また、まわりのものにも「触れる」柔らかさがでる。
【ゲーム】カウントゲームと似たものとして、NHKの『課外授業 ようこそ先輩』というシリーズのなかで、演劇家の野田秀樹が行なっていたゲームがある。やり方は次のようだ。グループがアットランダムに空間に散らばり、さまざまな方向を向いて立つ。そしてまず、だれか一人だけが大きく一歩、動く。つぎにだれか二人が同時に動く。つぎに三人が同時に動く。三人うまく同時に踏み出せたら、こんどは二人が同時に動く。うまくいったら最後に一人だけが動く。そこまでできればアガリということになる。だれがいつ動くのかは決められていない。いずれも声を出したり、指示を与えあったりせずに行なう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2012年5月29日
読了日 : 2012年4月17日
本棚登録日 : 2012年5月29日

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