君主論 改版: 新訳 (中公文庫 マ 2-3 BIBLIO S)

  • 中央公論新社 (2002年4月25日発売)
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つとに有名だが、手に取ることがなかった『君主論』。あるきっかけがあり、強制的に読むことになった。

『君主論』が書かれたのは16世紀のイタリアである。この時代のイタリアには統一された国民国家というものが存在せず、都市国家がそれぞれ君主を擁き、領土の奪い合いをしていた。また、隣国のドイツ、フランス、スペインなどもイタリア都市国家に対する領土的野心を隠していなかった。その中で国家を統治する君主は、国内を統治するとともに外敵からその領土を守らなければならない状況に置かれていたと言える。『君主論』は、著者マキャベリが、フィレンツェの書記官としての経験から、この時代の君主が持つべき資質や行動について、自らが師事しようとする君主に対して売り込みを目的としてまとめたものである。(という背景も初めて知ったのでだ)

『君主論』は、群雄割拠のイタリアの君主として国を治めるにあたっては、権謀詐術を用いて、臣下や民衆に恐れられる存在となるべきであると説く。そこで描かれる君主像は「恐れられるリーダー」と言える。誠実であるよりも、奸計を張り巡らせ、結果として裏切りなどを行ったとしても、成果によってはそれもよしとするものである。典型的には次のような箇所にその思想は現れている。

「愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。…人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機械がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見離されることがない。… 君主は、たとえ愛されていなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない」

これは弱肉強食の世界において有効なものと言えるかもしれない。有名な「狐とライオン」の譬えがマキャベリの理想とする君主像を表している。狐のように頭を使い奸計を巡らしたり危機をうまくはぐらかしたりする一方で、ときにはライオンのように力強く武力や権力をもって相手をねじ伏せることが必要だとする。

「名君は、信義を守るのが自分に不利をまねくとき、あるいは、約束したときの動機が、すでになくなったときは、信義を守れるものではないし、守るべきものでもない」とマキャベリが書くとき、明らかに『武士道』で優先されているような騎士の倫理よりも実利を上に置いている。倫理が実利につながる場合においてのみそれは守られるべきものであるとして、明確に現実と道徳との優先されるべき上下関係が存在している。それは次の言葉でも繰り返される - 「りっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだ、と。たとえば慈悲深いだとか、信義に厚いとか、人情味があるとか、裏表がないとか敬虔だとか、そう思わせなければならない」

「君主にとって、信義を守り奸計を弄せず、公明正大に生きるのがどれほど称賛されるのかは、誰もが知っている。だが、現代の経験の教えるところでは、信義などほとんど気にかけず、奸計をめぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むしろ大きな事業(戦争)をやりとげている」とマキャベリが書くとき、世間においては『武士道』のようなフェアであることが大切だとする考え方が確固としてあることを知りながらも、あえてそれが現実的にはマイナスであるというのである。「武士に二言はない」として、それを至高とする考え方とは正反対である。「ほかの誰かをえらくする原因をこしらえる人は、自滅する」とまで言うと、それはやはり一度の失敗が取返しのつかないこととなる当時のイタリア都市国家の権力の世界の話であり、現代社会の中ではやはり受け入れられない部分を含むように感じてしまうのだろう。

これらを単純化してとらえると、『武士道』が性善説に立つのに対して、『君主論』が性悪説に立っているのだと言えるかもしれない。「ほかの誰かをえらくする原因をこしらえる人は、自滅するということだ」や「だまそうと思う人にとって、だまされる人間はざらに見つかる」という『君主論』にある言葉は、『君主論』が性悪説に立っていることの証左でもある。君主が「性悪」であることを積極的に肯定さえしている。君主の目的は、国と政権の維持であり、それがすべてに優先される。

「君主は戦いに勝ち、そしてひたすら国を維持してほしい。そうすれば、彼のとった手段は、つねにりっぱと評価され、だれからもほめそやされる。大衆はつねに、外見だけを見て、また出来事の結果によって、判断してしまうものだ。しかも、世の中にいるのは大衆ばかりだ。大多数の人が拠りどころをもってしまえば、少数の者がそこに割り込む余地はない」

「国」を「企業」に、「君主」を「経営者」に変えると『君主論』が説くところは現代においても当てはめられて考えられるところが多い。冷酷さと決断力は必要であるが、一方で仲間や部下や社員に畏敬を受けて管理するのかはいつのときにも重要な課題である。また、君主が変わった後の統治に関しては、M&A後のPMI (Post Merger Integration)に関する助言と取ることができるだろう。「征服者はとうぜんやるべき加害行為を決然としてやることで、しかもそのすべてを一気呵成におこない、日々それを蒸し返さないことだ。...要するに加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。...これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない」というのは、ひどいけれどもある種の心理学的な真実を含んでいる。また、兵力を傭兵で賄うのか、自国で兵士を育成するのかという議論に関しては、競争相手と戦うためのリソースのアウトソースをどこまでとして、どのように管理するのかという経営上においても重要な議論にもつながってくる。

マキャベリズムの問題として、よく問題として引き合いに出されるのは、恐怖政治を肯定する部分である。具体的な例では、「一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい」というような言葉である。冷酷さが、結果を伴うのであれば、それはリーダーとして当然の行動であるというものだ。平時と有事というものがあるのであれば、マキャベリズムは有事の際のリーダーシップのあり方とも言えるのかもしれない。それは一種の経営者の覚悟の形式なのかとも思えた。

この歳までおそらく過去の古典として認識していたがゆえに読むことがなかった『君主論』だが、いったん読んでみると問題意識は意外に現代と共通するところが多い。一方で、もはやこの考え方を直接的に取って行動に移し替えることは、個人的にも世間的にもつらいことのように思える。それでも、そのエッセンスは人間の一面の真実を捉えたものであることは認識しておくべきことのように思える。もしもワンタイムのゲームのプレイヤであるならば、マキャベリの説く行動指針は合理的であるとも思うのだ。狐とライオンではないが、世の中が羊ばかりでは何も動きはしないのだから。



※マキャベリが理想の君主像ともみなしたチェザーレ・ボルジアが病に倒れて早世したり、メディチ家の勃興などが君主論の背景にはある。今まで、この頃の欧州については全く興味がなかったのだけれども、少し面白いかなと思えた。同じ時期にルネサンスが起き、ミケランジェロやダビンチが同じ時期に同じ場所にいたのだというのも興味深い。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学批評
感想投稿日 : 2017年10月9日
読了日 : 2017年9月6日
本棚登録日 : 2017年9月9日

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