勉強の哲学 来たるべきバカのために

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著者 : 千葉雅也
澤田拓也さん 哲学批評   読み終わった 

処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』も、一定の評価を受けて一定の層に受容されている。その題名からも分かるように著者の専門はフランス現代思想。大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会い、哲学を志したという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いた本が、東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。

「勉強」という一連の作業の中で、情報を探すということに関しては、著者がいうように現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者からしても「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代でもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。

著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになる。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」という。つまり、「勉強とは自己破壊である」ということである。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。

そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示している。なぜなら「言語は他者」であるからである。そして、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きているといえるのである。フランス現代思想においては、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることが哲学というものなのかもしれない。フランス現代思想とは、言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそこから自由になるための勉強論であるのかもしれない。

そして、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的な刺激ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作がある。柄谷は、ここではアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。

著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めるが、まったくその通りだと思う。

そして、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだという。その思考スキームは現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。

この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』は邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンはそれ以上に受け付けられなかった。それでも、デリダは頑張って読んだと思う。その頃の自分は、彼らの言語に対してバーチャルであってもリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて言語遊びになっているように感じた。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。


本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことを示している。東京大学に入学したことを考えると例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。それは、そうであっても全くかまわないのだけれど。


最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もするのである。そう思うべきであるのかもしれない。


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参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1

レビュー投稿日
2017年7月30日
読了日
2017年7月24日
本棚登録日
2017年7月23日
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