沈黙 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (1981年10月19日発売)
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キリスト教の説く神ではない、日本流に変質したものを信じて、それに殉教したのなら、その信徒たちは救われないのか。
信じればいいんじゃないのか。でも金の子牛は拝んじゃいけないのだから、それは神ではない。
唯一神という絶対でなければ、救えない。でもそれだと思っているものを信じるというのは、金の子牛とは違うのではないのか。それでも、正しい神を信じることが出来なかったということで、誤りなのか。
めいめいが自分の信じるものに祈るなら、祈ればいいけれども、それは救いをもたらさないということで、信徒としては許されないのか。
神が沈黙しているだけならば、なぜ、信仰を求めるのか。現世利益がないとしても、苦痛を与えて、人を試す必要があるのか。そこまでして証明しなければ、振り分けられないのか。

自分の苦しみなら自分ひとりで殉教しようものを、自分が棄教しなければ、他人が殺され続ける状況において、それでも棄教しないのは、愛なのか。



人生が変わるほどの衝撃とはいかなかったが、これを多感な時期に読んだら、相当に悩んだだろう。
時代が違えば。場処が違えば。
自分が強くなれていない人間なだけに、司祭を裏切り続ける男に同属嫌悪の感を抱く。
報われない。
神の教えを棄てることで人を救う……かかっているのが自分の命ならまだいいものを、自分が棄教しなければ他人が死ぬとなったら、信仰を維持することは、果たして正しいのか。
誰も答えられやしないだろう。
間接的な人殺しという罪、自分は弱い人間だという悔恨、司祭でありながら人を許せない自分への嫌悪感…
人間とはこうしてどろどろとしたものということを考える。
開高健の拾い読みで『言葉の落ち葉』に、司祭の彼がポルトガル人というよりは日本人くさいということが書いてあるが、そうだったとしても私は気づかなかった。ポルトガル人の思考がわからない。
そして、ポルトガル人の思考だったならば、これほど読後に感じ入らなかったのかも知れない。

p111

…略…罪は、普通考えられるように、盗んだり、虚言(うそ)をついたりすることではなかった。罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。

これもまた、被害者と加害者というものについて考えていたときにめぐりあった。本を読む順番の神さま、ありがとう!

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2014年7月25日
読了日 : 2014年7月25日
本棚登録日 : 2014年7月25日

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