人麻呂の暗号

著者 :
  • 新潮社 (1989年1月1日発売)
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本棚登録 : 67
感想 : 9
2

(*01)
本書の評判は聞き及んでいたので、好意をもって読むように努めた。内容の大半はどうともない創作であるが、何点かの価値は見出すことができた。
立場や方法として、アカデミズムへのカウンターとしてトラカレという通称で示された組織による、こぼれた知の回収に、へえ、と思った。この組織は、本書から推し量るに、知を欲望する人が隔てなく集まり、茶を飲み菓子を食べ食事を執りながら雑談を交え、そういった食餌とともに辞典や参考書から知を拾い、オープンに論をアーキテクチャするサロンの様に思えた。中には、祭酒やアガサと呼ばれるプロモーターともファシリテーターとも言える導師がいて、外部講師による関連インデックスの講義も催されているようであった。1980年代にこうした知の雑な方法(*02)が現れてきた事については、その起源や背景を色々に考察することができよう。
このトラカレによるワークショップの成果が本書であるが、アカデミズムに現われた論の批評として万葉集をめぐる知を相対化する試みではなく、既往とは一線を画し、素人大工の様な不細工さで孤立した感も否めない。後半は特に危うい立論での断定的な物言いが強く、ロマンスの風情を醸している。
万葉集の一次テクスト(二次テクスト?)(*03)である白文に、漢語朝鮮語日本語のそれぞれの辞書でアプローチして咀嚼して捻出した素材そのもの(*04)は、かなり面白いが、この素材を組み立て歴史フィクションとなす際に、稚拙が現われ、見事に柿本人麻呂が乙女な幻想世界に右往左往している様は滑稽であるし、トンデモと言えるのかもしれない。権力や哀史を絡めた死や別れの創作には、何も感じるところはなかった。

(*02)
本書の中で、三回ほどこの組織の方法が迫害される箇所が行き合う。一つは第三章で万葉学者のN氏にインタビューしたときで、意図した対話を築けていない。一つは第四章で公州のハルモニにかんざしを見せてもらおうとするシーンであり、このコミュニケーションは失敗している。一つは第五章に伊勢を訪ねた際に出会った万葉愛好家に朝鮮語による読みを尋ねたシーンであり、これもディスコミュニケーションに陥っている。このフィールドワークやインタビューの断絶は、通例の研究ではカットされるシーンであるが、この組織が採用する方法では採録されている。この方法の新奇性とともに考えたい問題である。

(*03)
万葉集の白文とその訓については、十分に研究されてきたところと思われるが、本書が指摘するように、そこには可笑しな訓が散見され、これらのおそらくは誤った訓の苦々しさをみるだけでも、万葉集は楽しい読み物である。ひとつの無理は、もちろん五七五七七の和歌調に整えようとしたところにある。万葉集にも音律はあったであろうが、この音律を和歌に嵌め詠むことのナショナルな心性には涙ぐましい努力が見え、万葉集のテクストを歪める方へと傾いた。もちろん無理筋な訓みにも万葉の本来の読みは保存されたであろうが。

(*04)
第二章の枕詞の解釈は、説得的であり、おそらくここに書かれた通りであろうと思われる。フレーズを繰り返すリフレインが枕詞の無意味や難解を導いているのだと思う。朝鮮語で読むことそのものも方法論としての可能性はあるが、通読できる方法ではないだろう。第一章で示された多言語な情況はあったと思われ、だからこそ朝鮮語の音「だけ」でなく、朝鮮語の音「も」使われたのであろう。現代のヒップホップのリリックが駄洒落ないしは掛詞や韻を多用すれば、そこには聖俗古今東西さまざまな言語が集うのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: poesy
感想投稿日 : 2015年1月31日
読了日 : 2015年1月31日
本棚登録日 : 2015年1月29日

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