ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1962年5月2日発売)
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感想 : 181
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「もし『ドリアン』がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいものだろう。そうなるものならなあ!」

画家がワイルドの前で発した一言がはじまりだった。

この小説に登場するヘンリー卿の、人を惹きつける様な逆説と快楽主義の言説の数々は、この小説の大筋、すなわちドリアン・グレイの物語とは独立しているように感じられる。おそらくそれらはワイルド自身の言葉であり、彼はかねてからそれを何かしらの形で表現したいと思っていたに違いない。
彼は画家の言葉に物語を思いつき、主人公に影響を与える人物としてヘンリー卿を設定し、その口を借りただけなのかもしれない。
彼の言葉を読むだけでも、この小説は価値のあるものだと僕はおもう。

「誠実な人間は恋愛の些細な面しか知ることができない。きまぐれな浮気者だけが恋愛の悲劇を知ることができるのだ」(p.33)
「ぼくにとっては、美は驚異中の驚異だ。ものごとを外観によって判断できぬ人間こそ浅薄なのだ。この世の真の神秘は可視的なもののうちに存しているのだ、見えざるもののうちにあるのではない……」(p.50)

その酔いも覚めやらぬうちに、物語はドリアンとその肖像へと主題を移していく。
肖像画がドリアンの罪や堕落を代りに蓄積し年をとっていく、という(画家の一言に端を発した)どこかSF的な設定が、常人離れした美を持つ主人公の葛藤を描き出す。肖像画の表現も妙にリアル。

「これはおれにとって良心と同じようなものだったのだ。」という、クライマックスの主人公の気付きで全てが線になった。
シビルの死以降おもに表される、ドリアンが肖像画に脅えるさまは、まさに人が罪を犯すときに感じる「呵責」であり、
彼がそれに繍布を被せて向き合わないようにし、挙句の果てには屋根裏に封印するのも、まさにそれが「良心」の象徴だからなのだろう。

あと気になったのが、美の象徴たるドリアンが「美なるものの創造者」(序文より)である芸術家を殺す場面だ。肖像画にナイフを突き刺す最後の場面より如実に描かれ、『罪と罰』を髣髴とさせる凄惨さで、この小説において奇特に浮いている。
もしかしたら、これこそ唯美主義、芸術至上主義者としてワイルドが一番描きたかった場面なのかもしれない、と少し思った。人は結局、美そのものにはかなわない。考えすぎかな……

「芸術が映しだすものは、人生を観る人間であって、人生そのものではない。」
序文の中でこの言葉が一番すきだ。個人的に。
肖像画の中に映し出されたあらゆる醜さは、客観的に「罪」とされるドリアンの人生そのものでなくて(彼が犯した堕落や悪行は噂として語られるだけで具体的に描かれない)、それを主観的に見つめるドリアンのこころだったとしたら、彼はほんとうの意味で悲劇の主人公だなと思った。
ヘッティ・マートンのくだりを読むあたりで、ドリアンの愚かさに誰もが気付くだろう。彼はその愚かさゆえに、自分がその過去を罪だと感じていることにさえ気付かず死んだのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2011年4月17日
読了日 : 2011年4月16日
本棚登録日 : 2011年4月11日

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