日本の反知性主義 (犀の教室)

  • 晶文社 (2015年3月20日発売)
3.69
  • (27)
  • (69)
  • (49)
  • (9)
  • (3)
本棚登録 : 777
感想 : 62
4

2010年秋に、当時の仙石由人官房長官が「自衛隊は暴力装置である」と発言して物議を醸したことをご記憶の方は多いと思います。
私は当時、このニュースを見てこう感じました。
「ひどい言いようだな」
SNSなどインターネット上でも、仙石氏の発言に対する批判が噴出しました。
ただ、私はSNSのヘビーユーザーにも関わらず、自分の意見を投稿することはしませんでした。
これは最近特にしばしばあることですが、批判する人たちの口吻に「正義」の臭いをかぎ取って辟易してしまったのですね。
私は「正義」を声高に言い募るのが生来苦手なのです。
本書を読んで、当時の選択が正しかったと安堵しました。
本書の執筆者の一人で、「永続敗戦論」(太田出版)で有名になった白井聡さんはこう書いています。
「自衛隊のような軍隊や警察などの国家が有する実力組織を『暴力装置』と呼ぶのは、政治学や社会学では一般的な事柄である」
つまり自衛隊を掌握している政府の人間が、事実上の軍隊である自衛隊を「暴力装置」と正しく認識しているということは、国民として安心できることではあっても、決して批判されることではないということです。
もっとも、安倍首相が最近、自衛隊を「わが軍」と呼んで批判を浴びたように、官房長官という立場にも関わらず公の場で、自衛隊を軍隊とほぼ同義である「暴力装置」という呼称を用いたのは不用意で、その意味では批判されても仕方ない面はありました(ただ、そういう意味での批判は当時皆無でした)。
などと偉そうに書いていますが、私だって当時よく知りもしないで「ひどい言いようだな」と感じ、一歩間違えばSNSで投稿して恥をさらす可能性もあったことを考えれば、「反知性主義」のそしりは免れないでしょう。
もとより知性的な人間ではありませんが、せめて目の前の事象を冷静に受け止め、よくよく事情を調べて、自分の頭で考えてから反応する姿勢だけは持ちたいものだと、本書を読んで愚考した次第です。
本書は、現代社会に跋扈する「反知性主義」について、ビジネスマンや哲学者、政治学者、コラムニスト、作家、ドキュメンタリー映画作家、生命科学者、精神科医、武道家と様々な分野で活躍する方たちが書いた論考を、思想家の内田樹さんがまとめたもの。
大いに勉強になりましたし、反省もしたところです。
以下、自戒も込めて、印象に残った箇所をいくつか。
【内田樹氏】
□□□
バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。(P020)
□□□
反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計資料をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。(P021)
□□□
その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。(P023)
□□□
反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。(P041)
□□□
【白井聡氏】
自衛隊のような軍隊や警察などの国家が有する実力組織を「暴力装置」と呼ぶのは、政治学や社会学では一般的な事柄である。ところが、日本の一部世論はこうした常識を理解できず、仙石への批判の声が相次いだ。これは、インターネットの普及による「集合知」ならぬ「集合痴」の効果が遺憾なく発揮された例だと言えるであろう。(中略)彼らは、「暴力装置」という言葉の語感からピント外れの批判を繰り出し、実際は無知を曝け出しているにもかかわらず、あたかも「失礼だ」という批判が正当であるかのような雰囲気が醸成される、という無残な状況が出現した。(P094)
□□□
【平川克美氏】
戦後70年を経た日本とは、戦争の時代について誰も知っているものがいなくなった時代である。もはや、我が国の政治家が語る戦争とは、ベトナム戦争前のリンドン・ジョンソンや、イラク戦争前のジョージ・W・ブッシュほどにも、戦争について幻想的なイメージしか持たないものによって語られる戦争でしかないということであり、それがどれほど現実離れしたファンタジーでしかないかということは、肝に銘じておきたいと思う。(P156)
□□□
【小田嶋隆氏】
「試験をパスした人間」の象徴としての「官僚」と「マスコミ」、さらに「試験を課す人間」としての「大学教授」と「日教組」あたりは、「学歴主義的」な「体制」の黒幕として、反知性主義者の憎悪を糾合することになる。(P191)
□□□
【名越康文氏×内田樹氏】
内田 親の欲望、親の抱えていた欠落感って、子どもにダイレクトに伝わりますね。不思議なもので、「親が持ってるもの」はそれほど遺伝しないんだけども、「親が持ってなくて、欲しがっていたもの」って、子どもにそのまま遺伝する。
名越 ほんとそうですよね。
内田 これがなくて俺は苦労した、これさえあれば……という、「無いもの」に対する同性の親の欠落感は、同性の子どもに深々と刷り込まれるみたいですね。(P204)
□□□
内田 わかるでしょう? 自分が「学びのモード」に入ったときって、何かが変わるんですよね。まだ1ページも読んでないんだけれども、それ以外の日常生活のクオリティが全部上がる。なんというか、毛穴が開いてる感じになるというか。
名越 ああ、わかる。(P211)
□□□
【想田和弘氏】
ドキュメンタリーとは、作り手自身を「世界」に委ね、身体と意識を開いていき、そこから何かを本気で学ぼうとするための知的営みである。締め切りまでに完成するのか、いや、そもそも作品として成立し得るものかどうかなど、誰にも予測できない知的冒険であり、ギャンブルである。(P250)
□□□
例えば、「先に有罪ありき」の司法制度。(中略)他にも、「先に点数ありき」の教育制度。「先に移設ありき」の沖縄米軍基地問題。「先に書き換えありき」の歴史改ざん主義。「先にコスト削減ありき」の福祉制度改革。「先に可決ありき」の秘密保護法。いずれも、個人が自由な知性を発揮し、教育を、米軍基地を、歴史を、福祉を、民主主義を本気で考え、吟味しようとするならば、「台本(ゴール)」の正当性や意義が深刻に疑われる事例である。しかし、コトを進める人たちは、何があっても台本だけは絶対に崩そうとしない。そして台本を崩さないために、知性そのものの発動を抑制するという本末転倒が生じているのである。(P253)
□□□
【仲野徹氏】
そして、あまり語られない大きな問題は、応用研究の大多数はモノにならないということだ。新聞などで、この研究によって〇〇の治療が可能になる、と報じられることはよくあるが、後日、そうなったという話などほとんど聞かない。ゴール志向性の強い応用研究がゴールに至らなかった時、残念なことに、結果的にほとんど何も生み出さない。(P273)
□□□
【鷲田清一氏】
知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。(P292)
□□□
自由主義とは(……)多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かつて地球上できかれた最も気高い叫びなのである。自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。(オルテガ「大衆の反逆」(107頁)(P296)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2015年3月29日
読了日 : 2015年3月29日
本棚登録日 : 2015年3月29日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする