NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2013年 10月号 [雑誌]

制作 : ナショナル ジオグラフィック 
  • 日経ナショナルジオグラフィック社
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  • 写真の力

    ナショナル ジオグラフィックの写真家たちはカメラを手に未踏の土地へ出かけ、知られざる事実を写真で伝えてきた。そして今、写真は世界を変える力となる。

    文=ロバート・ドレイパー

     写真には、人の心を動かし、世界を変える力がある。
     ありのままの真実を目に見える形で示すことで、悪と戦う武器にもなれば、未知の世界への扉を開いてもくれる。創刊125周年を記念する今回の特別号では、「目撃する」「証明する」「つながる」「明らかにする」「賛美する」「保護する」というキーワードのもとに、そんな写真のパワーを伝える、とっておきの特集をお届けする。

    ◆   ◆   ◆

     写真の技術が発明され、普及したのは19世紀の出来事だ。
     そして今から125年前、1888年にナショナル ジオグラフィック誌は創刊された。地理知識の向上と普及を目指すまじめな協会の会報とあって、当初の誌面は文章ばかり。写真とは無縁の地味な雑誌だった。

     やがて、ナショナル ジオグラフィック協会の探検家たちはカメラを使い始めた。世界各地から持ち帰った写真の数々が、誌面を飾り、読者のものの見方や、時には人生すら変えてしまう。写真はこうして、この雑誌の最大の売りとなっていった。

     世界には現在おびただしい数の写真があふれ、膨大な数の画像が刻々とインターネットに流れ込む。至るところにカメラの目が光る、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』さながらの監視社会が到来したのだ。
     そんな現代にあっても、偉大な写真は見慣れた世界を一変させ、目にした者は二度と世界を以前と同じように見ることができなくなる。ナショジオ誌の写真家たちが生み出す傑作写真には、私たちを未知の世界へと連れて行く力がある。
    憧れの職業「ナショジオの写真家」の実情は?

     私がナショジオ誌の仕事に携わっていると言うと、誰もが驚き、興味を示す。
     やむを得ず、「といっても、ただの書き手なんですけどね」と言い添えたときの反応も、予想がつく。この雑誌の写真家と言えば世間では、美を求めて世界中を旅してまわる、誰もがうらやむ職業に就いている人間のことだ。映画『マディソン郡の橋』を見ればよくわかる。

     だが、この雑誌の写真家と何度も一緒に仕事をしてきた私自身は、彼らをうらやましいと思ったことはない。荷物の重量オーバー、悪天候、撮影許可の不備などの障害が撮影にはつきものだ。骨折したり、マラリアにかかったり、投獄されたりといった災難にも事欠かない。家族と過ごす休暇や誕生祝い、子どもの学芸会もそっちのけで、何カ月も家を留守にするのが当たり前。敵意に満ちた取材先の国で悪戦苦闘したり、樹上で1週間過ごしたり、昆虫を食べる羽目になったり。どんな悲惨な状況も平然と受け入れる彼らの胆力には、いつもつくづく感嘆する。

     取材先ではよく、写真家たちが何日も何週間も、被写体とともに過ごす姿を目にした。相手の話に耳を傾け、世界に伝えるべき物語を見きわめてから、ようやくカメラを構える。北欧の遊牧民サーミの村や、ニューギニアの野鳥の楽園など、容易には入り込めない世界で何年間も過ごす写真家もいる。やらせの写真でお茶を濁さず、撮る側と撮られる側の心が通い合った写真を目指すのだ。

     ジョー・ローゼンタールが撮った硫黄島にはためく星条旗や、アポロ8号の宇宙飛行士が撮影した青く輝く地球。そんな「世紀の一枚」を撮りたいと、プロの写真家なら誰しも願うだろう。だが、ナショジオ誌の写真家たちが追い求めるのは、そうした「歴史的瞬間」ではない。読者の心に最も深く刻まれた一枚は、歴史上の大人物の写真でも、大事件の写真でもない。それは1984年、写真家のスティーブ・マッカリーがパキスタンの難民キャンプで出会ったアフガニスタンの少女の写真だった。

     翌年6月号の表紙を飾った12歳の少女、シャーバート・グーラーの緑の瞳は、有能な外交官が束になってもかなわない大きな力で世界を揺り動かした。少女のまなざしは私たちの心に深く刺さり、日ごろはアフガニスタンに無関心な世界を立ち止まらせたのだ。私たちは少女の訴えをたちまち理解し、手を差し伸べずにはいられなくなった。
     日々膨大な数の写真が氾濫する今の世界でも、彼女のまなざしは受け手に届き、メッセージを伝える力をもっているだろうか? その答えは明白だと、私は思う。

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     まじめな協会の、まじめな会報として創刊されたナショジオ誌。それがこうして125周年を迎えることができたのは、まさに写真がもつパワーのおかげでしょう。この雑誌の草創期に、「写真を積極的に載せていこう」という“運命の決断”を下したのは、編集長のギルバート・ハビー・グロブナーでした。後年に日本を訪れたグロブナーの写真が、今月号の「日本の百年」に登場していますので、そちらもぜひご覧ください。(編集H.I)

    [目撃する/WITNESS]暴力が支配するコンゴの鉱山

    紛争による死者が500万人を超すアフリカ・コンゴ。東部の鉱山で採掘される金やレアメタルが武装勢力の資金源になっている。

    文=ジェフリー・ゲトルマン/写真=マーカス・ブリーズデール

     アフリカ大陸のサハラ砂漠以南で最大の国土を有するコンゴ民主共和国。
     ダイヤモンド、金、コバルト、銅、スズ、タンタルなど、埋蔵資源の規模は数百兆円とも数千兆円とも言われる。だが、そんな数字はあまり意味をもたない。長引く内戦により、今のコンゴは世界で最も貧しく、深刻な痛手を負った国となっている。

     なかでも武装集団が実効支配する東部の鉱山は、電子機器や宝飾品の世界的メーカーに希少な鉱物を供給すると同時に、この国を混乱に陥れている。あなたのノートパソコンやカメラ、あるいは金のネックレスには、微量ながら、コンゴの苦悩が含まれているかもしれないのだ。

     コンゴの惨状を理解するには、ベルギー国王レオポルド2世がアフリカ中部の広大な土地を私領化した、100年以上前の植民地時代に立ち戻る必要がある。国王の目当てはゴムと象牙。今も続く、強欲で容赦ない資源搾取の始まりだ。
     ところが、1960年にベルギーが突然コンゴの独立を承認したため国内は大混乱に陥り、野心を抱く若い軍人モブツ・セセ・セコが権力を握った。

     そんなモブツにも権力の座を追われる日が来る。そして、彼と一緒に国も崩れ落ちることとなった。そのきっかけとなったのが、1994年に隣国のルワンダで起きた大虐殺だ。ツチ族など約100万人が犠牲となり、加害者側のフツ族は多くがコンゴ東部に逃げ込んだ。

     ルワンダはウガンダと手を組み、1997年にコンゴに侵攻してモブツ政権を崩壊させた。これが第一次コンゴ戦争だ。ルワンダとウガンダは両国の息のかかったローラン・カビラを新大統領に据えたものの、彼の対応に不満をもち、再び侵攻を開始する。この第二次コンゴ戦争は、チャド、ナミビア、アンゴラ、ブルンジ、スーダン、ジンバブエも介入したことから、第一次アフリカ大戦とも呼ばれている。
    「紛争鉱物」に群がる諸勢力

     戦乱の無秩序状態に乗じて、他国の軍隊や反乱グループが何百という鉱山を占拠した。ダイヤモンド、金、スズなどの鉱物は、またとない資金源となる。これがいわゆる「紛争鉱物」だ。

     2000年代に入ると、国際世論の高まりを受けて外国軍はコンゴから撤退したが、後には荒廃した国土が残された。
     コンゴ東部は今も紛争地帯だ。ウガンダ、ルワンダ、ブルンジがさまざまな反乱グループの後ろ盾につき、鉱物資源の収益で武器を供与したり、民兵に報酬を支払ったりしている。国際社会はそんな現状を厳しく非難するものの、誰も有効な対策を打ち出せずにいた。

     ところが、2010年7月21日、米国でドッド=フランク法が成立した。
     この法律には紛争鉱物に関して特別に規定が設けられ、米国の上場企業は、自社製品に使用する鉱物が、コンゴ国内および周辺の武装集団が支配する鉱山に由来するかどうかを開示しなければならない。法律では紛争鉱物の使用禁止までは明確に定めていないが、多くの大企業は、世界最悪の人道被害が起きている国と結びつけられることを嫌がる。

     ドッド=フランク法によってコンゴ産のすべての鉱物がボイコットされ、かえって労働者の生活が脅かされるのではないか。そんな批判もある。法律の成立直後には実際、紛争の資金源でないことを証明できない業者から、多国籍企業がスズやタンタルを買わなくなった。さらに2010年9月には、コンゴ政府が東部での採掘と取引を半年間完全に禁じたため、何千人もの鉱山労働者が路頭に迷う事態となった。

     しかし、鉱物取引の新しい形が芽生え始める。コンゴ当局が鉱山の立ち入り検査を開始したのだ。居座っていた民兵や傭兵はコンゴ軍によって一掃され、代わりに訓練を受けた鉱山警察が監視に当たるようになった。

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     9月号の「キンシャサ」に続く、コンゴ民主共和国の特集第2弾です。写真家ブリーズデールのカメラがとらえた、鉱山に強制徴用された児童労働者や、戦うことを教え込まれた少年兵。どちらにも明るい未来はありません。このまま大きくなってしまうのでしょうか。せめて彼らに、別の世界を見せてあげたいと願わずにはいられません。(編集H.O)

    [証明する/PROVE]氷河融解

    世界各地の氷河が驚くほどの速さで解けている。定点観測で記録した100万枚の写真が、気候変動の動かぬ証拠だ。

    文=ロバート・クンジグ/写真=ジェームズ・バローグ

     写真家ジェームズ・バローグは、世界の氷河を撮り続けている。その目的は、地球の気候が本当に変化しているのを、写真の力で証明することだ。

     2007年に、調査プロジェクト「エクストリーム・アイス・サーベイ」を開始。太陽電池で作動するカメラを25台、グリーンランドとアイスランド、アラスカ、アルプス山脈、ロッキー山脈の氷河の近くに設置した。日中は30分ごとにシャッターが切れるように設定し、氷河の変化を記録する。こうして撮影した100万枚近い写真を見れば、氷河の融解が疑う余地のない事実だとわかる。
     プロジェクトは現在も続行中で、対象を南米や南極にまで広げている。気候変動は、私たちが直視しなければならない現実なのだ。

     かつて人間は氷河を恐れていた。ところが19世紀後半には観光名所となり、スイスにあるローヌ氷河では毎夏、ホテル・ベルヴェデーレ近くにトンネルが掘られて氷河の内部に入れるようになった。人間はその頃すでに、氷河を消滅させてしまうような世界を作り始めていた。しかし、氷河はまだ生きている。

     氷河は息をする。氷河の上流に積もった雪が氷になり、末端部の近くで解ける。
     「氷河は冬に息を吸って、夏に吐き出します」と話すのは、スイスにあるフリブール大学の氷河学者マティアス・フス。8月にローヌ川を流れる水の4分の1が、氷河の解けた水だという。
    氷河の数が6分の1に減った国立公園

     氷河は動く。自らの重さに耐えられなくなると、氷自体が流動する。
     「動いていないものは、氷河とは呼べません」と話すダン・フェイグリは、気候変動を研究する生態学者。米国モンタナ州のグレイシャー国立公園で、この20年間働いてきた。現在、公園内には氷河が25個あるが、100年前は150個もあったという。その多くが地図に載る前に消えてしまった。

     今から2万年前の氷河期、スイスは氷の海に覆われ、アルプス山脈の峰々だけが凍った海面から突き出ていた。そして19世紀、小氷期と呼ばれる寒冷な時代の終わり頃にも、氷河はまだ健在だった。ローヌ氷河を撮った1849年の銀板写真を見ると、氷河の末端部が現在より500メートルほど標高の低いところまで達していたのがわかる。
     スイスの科学者たちは、山の高い地点に氷河が通った痕跡があるのを見て、過去に大氷河期があったことに気づいた。私たちはこうして、地球の気候が大きく変化しうると知ったのだ。

     もし人間が地球の気候を変えることなく、自然に委ねるとすれば、1000年か2000年のうちに氷河期が再び訪れるだろう。逆に私たち人間が、地下にある石炭や石油や天然ガスを燃やし尽くせば、地球上の氷は残らず解ける。
     氷河は私たちが、重要な分岐点にいることを思い出させてくれる。

     アルプス山脈にかつて存在した氷の半分が、20世紀までに解けてしまった。これはスイスの湖をすべて満たすほどの量だ。地球に残る氷の8割から9割が2100年までになくなるだろうと、氷河学者のフスは予測している。
     ローヌ氷河は山の上方に後退して、渓谷からは見えなくなった。フスは言う。「夏の終わりに雪が全部解けて、すっかり小さくなった氷河を見ると、つらい気持ちになりますよ」

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     写真家ジェームズ・バローグが取り組んでいる氷河調査プロジェクト「エクストリーム・アイス・サーベイ(EIS)」は、目で見ることが難しい地球温暖化の実態を、写真というツールを利用して見えるようにしています。具体的には、世界各地の氷河にカメラを設置して、タイムラプスで撮影、氷が解けていく様子を記録するのです。
     今月号に掲載したアラスカ州のコロンビア氷河の写真は衝撃的でした。2006年と2012年のコロンビア氷河の状態は、目を疑うほど。たった6年間で、氷河が3キロも後退してしまい、氷に覆われていた海面があらわになっています。このプロジェクトの写真は、地球温暖化の動かぬ証拠です。(編集S.O)

    [つながる/RELATE]変わる米国人の顔

    多民族国家である米国では今、人種やアイデンティティーの概念が変わりつつある。もはや外見だけで人種を判断することは難しい。

    文=リーサ・ファンダーバーグ/写真=マーティン・ショーラー

     単なる顔写真を集めただけなのに、興味を引かれるのはなぜだろう。一つの顔に、さまざまな人種の特徴が混在しているからだろうか?

     米国勢調査局が複数の人種の先祖をもつ、いわゆる混血の国民について詳細なデータを集め始めたのは2000年から。国勢調査で、自分の人種を答える選択肢を二つ以上選べるようにしたのだ。すると、680万人が複数回答をした。10年後、その人数は約1.3倍に跳ね上がった。白人、黒人といった人種の回答で最も増えているのが、この「複数の人種に属する」人々だ。

     18世紀後半、ドイツ人科学者ヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハは、ヒトを赤、黄、茶、黒、白という五つの「自然的変種」に分類した。国勢調査の選択肢もいまだにこの旧来の分類に基づいているが、国民自身の裁量で複数選べるようになっただけ良い。分類システムの改善に一歩近づいたと言えるだろう。

     このような人種の概念に生物学的な根拠がないことは科学的に証明されている。だが一方で、人種意識や偏見が根強く残っているのも事実だ。人種の調査は、差別禁止法の施行や、ある集団に特有の健康問題を特定するために活用される。

     国勢調査局は、調査票の人種の分類に欠陥があることを承知している。また混血の米国人にとっても、人種の概念は非常に微妙なものだ。ここに写真を掲載した人々もそうだが、自分をどの人種とみなすかは、政治や宗教、歴史、土地柄などに影響され、その情報が使われる目的に応じて回答を変えることもある。
    黒人と日本人の両親をもつ子は「ブラッカニーズ」

     黒人と白人を両親にもつマッケンジー・マクファーソン(9歳)は、人種を聞かれると「『ブラウン』と答えるけど、何でそんなことを知りたいのかなって思うわ」と語る。

     とはいえ最近では、人種についての意識はより柔軟になってきている。複数の文化や人種にルーツをもつ若者たちが、自由で遊び心のある呼び名をつくり出しているのだ。

     米国の子どもや若者の間では、ブラッカニーズ(黒人と日本人)、フィラティーノ(フィリピン人とラテン系米国人)、チカニーズ(メキシコ系米国人と日本人)、コルジェンティニアン(韓国人とアルゼンチン人)など、人種や民族に関する造語が使われている。
     イヌピアト(エスキモー)と米国中西部のユダヤ人の混血であるジョシュア・アソーク(34歳)には、大学時代に「ジュスキモー」というあだ名がついた。ユダヤ人を表すJEW(ジュー)とエスキモーをくっつけた言葉だ。彼は今でも自己紹介をする時にこの言葉を使う。

     米国人にとって人種は今でも重要であることは確かだ。国勢調査局は2060年までに白人が少数派になると予測する。
     だが、人口の割合が増えれば社会的な機会が保証されるわけではないし、日系米国人の強制収容や黒人差別法といった負の遺産が帳消しになるわけでもない。
     現在、白人の平均収入は黒人やヒスパニックの2倍、財産は6倍と言われている。若い黒人男性が失業する確率は白人男性の2倍だ。人種的な偏見はいまだに投獄率や健康状態を左右し、全米で話題になることもある。

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     「単なる顔写真を集めただけなのに、興味を引かれるのはなぜだろう」――筆者のこの言葉の理由が、写真を見るとよくわかります。どこの国の混血なのか、一見しただけでは判断できない人ばかりで、つい何度も見返してしまうのです。顔がクローズアップで撮られているのにも理由があります。その答えは特集で!(編集M.N)

    [明らかにする/REVEAL]北朝鮮 見え隠れする素顔

    厳しく統制された北朝鮮で、真の姿をとらえるのは容易ではない。長期にわたる取材で、閉ざされた社会の“無防備な瞬間”を拾い集めた。

    文=ティム・サリバン/写真=デビッド・グッテンフェルダー

     北朝鮮で取材を進めていると、長らく孤立を続けてきた国の内部を垣間見る貴重な機会にめぐりあうことがある。戸惑うことも多いが、はかない記憶のかけらを一つずつ拾い集め、この国の全体像を組み立てつつある。

     実際、取材の目的地よりも、移動中に見た光景のほうが真実を物語っていることが多い。たとえば、バスの運転手がたまたま平壌(ピョンヤン)の大通りを外れ、暗い建物が並ぶ、穴だらけの狭い道に入ったとき。あるいは夜、古ぼけた高層マンションの、裸電球のかすかな明かりで照らされた部屋を目にしたとき。そんな瞬間に、北朝鮮の無防備な素顔を知ることができた。思いきって平壌を離れ、モダンな高層ビルがない都市を訪れたとき、商店に入ると店内は薄暗く、陳列棚は半分しか埋まっていなかった。

     もちろん、北朝鮮当局が見せたいのはそんな現実ではない。栄養十分で幸福な子どもたちばかりの学校、棚に商品がぎっしり並んだ店、国中にあふれる金一族への忠誠心。そんな姿を世界に披露しようと躍起になっている。

     住民たちは記者に何を話すべきかよく知っていて、現実味のないお決まりの誇張表現で、指導者への称賛をまくしたてる。ある日、平壌にできた北朝鮮初のミニゴルフ・コースで、北東部の農村からやって来たキム・ジョンヒという51歳の主婦に会った。そのときに聞いたのは、こんな言葉だ。

    「『敬愛する金正恩(キム・ジョンウン)将軍』の温かい愛のおかげで、私のような田舎者でもここへ来てミニゴルフを楽しめるんですよ」

     こんな話を何度も聞かされた後では、北朝鮮の人々を全体主義体制のロボットとして描く風刺画を信じそうになる。難しいのは、それよりもとらえどころのない、平凡な現実を発見することだ。時には、人々が心を開いてくれそうな話題を見つけなければならないこともある。
    平壌市民の心をつかんだ『風と共に去りぬ』

     たとえば『風と共に去りぬ』がそうだ。北朝鮮の人々は77年前に米国で出版されたこの小説に魅了され、南北戦争という内戦の物語と、二度とひもじい思いはしないと決意した主人公の姿に自らの運命を重ね合わせている。北朝鮮では朝鮮戦争の死者・行方不明者が100万人を超え、1990年代の飢饉(ききん)で数十万人が死亡したと推定されている。政府は90年代半ば、なぜかこの本を翻訳させた。ちょうどソ連の支援を失った北朝鮮が深刻な危機に陥り、大規模な飢饉が発生した時期だ。

     検閲の目を逃れる娯楽がほとんどない国で、この小説は首都の住民たちの心をつかんだ。今や、平壌で『風と共に去りぬ』を読んだことがない大人を見つけるのは難しい。
     この本は米国女性がひどい扱いを受けている証拠だと言うのは、平壌の図書館「人民大学習堂」の案内係。開城で会った横柄な役人は、反資本主義の教訓物語だと解釈していた。不幸な結婚生活を送るある女性は、主人公スカーレット・オハラの姿に人間の強さを感じたと話す。

     凍えるような寒さの夜、花火見物を楽しむ市民にも出会った。安っぽい木綿のコートを着込み、地べたに座って空を見上げる中年女性たちの姿からは、人々の強さが伝わってくる。
     平壌の住民は知識欲も旺盛だ。ここでは停電は珍しくないのだが、そんな夜に市街地を車で走っていると、数十人が街灯の下に立ち、新聞を読んだり学校の宿題をしたりしているのを見かける。そして、見せかけの演出の裏側で庶民の素顔を垣間見ることも少なくない。

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     撮影を担当したのは、2011年12月号の「福島原発 避難の記憶」などを手がけたデビッド・グッテンフェルダーです。AP通信の写真家でもある彼は、2012年以降、25回も北朝鮮を訪れて、閉ざされた国の現実を追ってきました。
     当局のガイドに一挙一動を監視されているため、自由に撮らせてはもらえないそうですが、それでも彼の写真には、よくある北朝鮮の写真と違ったところがあります。たとえば、平壌のスタジアムに集まった兵士たちの写真。よく見ると、腕組みする人、談笑する人、足を組む人、遠くを見ている人など、しぐさや表情が一人ひとり違います。典型的な北朝鮮の光景のなかに見え隠れする「素顔」を探してみてください。(編集T.F)

    [賛美する/CELEBRATE]大地に映す素晴らしき風景

    足元の地面をキャンバスに、映し出すのは米国西部の大自然。写真の古い技法が、見慣れた景勝地の新たな魅力を伝える。

    文=トム・オニール/写真=アベラルド・モレル

     写真家アベラルド・モレルは、一風変わった風景写真を撮っている。「カメラ・オブスクラ」という古い技術を応用し、足元の地面をキャンバスに、米国西部を象徴する景勝地を映し出すのだ。

     見飽きた世界を新たな視点から賛美し、貴重な景観を守ることの大切さを伝えたい。モレルの作品には、そんな希望がこめられている。
    西部の風景の荘厳さを伝えたい

     米国カリフォルニア州にあるヨセミテ渓谷のブライダルベール滝を、写真家カールトン・ワトキンスが訪れたのは1861年。ゴールドラッシュの狂乱がまださめやらない頃だ。

     31歳だったワトキンスは、一獲千金を狙う山師のように果敢にシエラネバダ山脈を登った。ガラス板や薬品などの重い撮影器材を積んだラバの一行を率いて80キロほど歩くと、ワトキンスは雄大な滝の全景が見渡せる場所に陣取った。そしてカメラを三脚にセットし、撮影にちょうど良い光を待った。

     それから150年後、ヨセミテ渓谷にキューバ出身の写真家アベラルド・モレルがやって来た。65歳のモレルは「それほど苦労せずに到着しましたよ」と苦笑いした。国立公園内の舗装された道路に車を止め、歩いたのはそこからマーセド川の岸までのわずかな距離だ。モレルはかつてワトキンスが陣取った場所の近くにドーム型のテントを設営し、てっぺんに潜望鏡(ペリスコープ)を取りつけた。そしてテントの中にデジタルカメラをセットすると、最適な光になるのを待った。

     時間と技術的な隔たりはあっても、ワトキンスとモレルの目的は同じだった。西部の風景の荘厳さと奥深さ、そして国立公園という制度の素晴らしさを訴える写真を撮ることだ。

     ワトキンスや、同時代に活躍したティモシー・オサリバン、エドワード・マイブリッジらが風景写真家の先駆けとなれたのは、写真技術の進歩のおかげだ。
     それまで写真と言えば、小さな銅板を感光材に、スタジオで撮影するポートレートがほとんどだった。だが、露光時間が短く、ガラス板を用いた扱いやすい湿板が登場したことで、戸外での撮影が容易になったのだ。

     そんな19世紀の写真家たちと比べても、モレルのスタイルは古典的と言える。1991年からずっと、最初期の光学装置の一つであるカメラ・オブスクラ(暗い部屋)を採用しているのだ。小さな穴から差し込む光を暗い面に当てて像を結ばせるという、光学の基本原理を用いた手法だ。

     当初はホテルの暗い部屋の壁や床に、橋やビルといった外の景色を投影し、二重に浮かび上がる不思議な光景をカメラでとらえていた。だが、この方法では、砂漠の真ん中や大自然のただ中での撮影は難しい。
     そこでホテルの部屋の代わりにテントを利用し、周囲の景色を地面に直接投影させる方法を編み出した。

     この方法を使えば、これまで繰り返し撮影されてきた米国西部の景勝地を、新鮮な驚きをもって賛美できる。モレルはそう考えた。
     初期の写真家たちへ敬意を払いつつ、現代の人々に絵はがきの定番となった名所を新たな視点で見てもらいたい。そんな思いから、モレルはカメラ・オブスクラで西部の国立公園を撮り続けている。彼の手にかかれば、見慣れたブライダルベール滝も、松葉や芝、雑草のキャンバスの上に幻想的な風景となって現れる。

     モレルの作品は、米国初の国立公園の設立に貢献した先人たちの写真のように、社会に劇的な変化をもたらすことはないかもしれない。だが、その風景の偉大さを見直すきっかけとなるには十分だ。モレルは米国の至宝である素晴らしい自然に目を向け、まるで天が地上に降りてきたかのような、新たな世界を見せてくれる。

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     最初は前衛絵画やモザイク画のようにしか見えなかったモレルの写真。じーっと見つめていると、砂や石粒などが見えてきます。「やっぱり大地そのものを撮影しているんだ」とわかった瞬間、そこに凝縮されていた時間と空間が一気に感じられて、なにやら不思議な感覚に。モレルの公式サイト(abelardomorell.net)にある「室内編」とぜひ比べてみてください。(編集H.O)

    [保護する/PROTECT]動物園はノアの箱舟

    人気のある動物を見せるべきか、絶滅危惧種の保護に重点的に取り組むべきか。動物園は今、大きな岐路に立たされている。

    文=エリザベス・コルバート/写真=ジョエル・サートレイ

     2100年までに、地球上の生物種の半分が絶滅の危機を迎えるおそれがある。
     野生動物の生息地が失われるにつれて、動物園はますます現代版のノアの箱舟のような役割を果たすようになっている。多くの野生動物が絶滅に追い込まれつつある今、動物園は彼らが生き残るための、最後の避難所になろうとしているのだ。

     動物園の原型と言えるものは数千年前からあった。古代エジプトの数少ない女性ファラオ、ハトシェプストは紀元前15世紀にサルやヒョウやキリンを飼育する小規模な動物園を運営させていたという。

     とはいえ、現在のような動物園が誕生したのは近代になってからだ。米国では1859年、初の動物園協会がペンシルベニア州フィラデルフィアで発足。その目的は、当時人気だったサーカスの動物ショーや町の小さな動物園よりも大規模で、教育もできる動物園を設立することだった。
    「種の保存」と集客力、どちらを優先すべきか

     米国の動物園は草創期から種の保存に取り組んできた。アメリカバイソンやクロアシイタチ、カリフォルニアコンドルなど、動物園のおかげで絶滅を免れた成功例はあるものの、種の保存を行うには動物園の経営基盤が安定している必要がある。保護の必要な動物が、必ずしも集客力のある人気者とは限らないのが頭の痛いところだ。

     シカゴ動物園協会の保全生物学者ロバート・レイシーによると、動物園は今後、何を優先すべきか、非常に困難な決断を迫られるという。

     「人気のある大型動物を少数だけ飼育するか、それとも、小さな生き物たちの保護に力を入れるのか。小さな動物は人々の関心を引きにくい傾向がありますが、大きな動物を飼育するのと同じ資金ではるかに多くの種を救えます」

     一方、動物園はその役割を根本的に見直すべき時期を迎えつつあると主張する人々もいる。21世紀に入ってますます状況が悪化している以上、さしあたり保護の必要がない動物まで飼う意味があるのか疑問だというのだ。

     「一般の人々が見たがっているから、というのは、責任逃れのように聞こえます」と、オニー・バイヤーズは語る。彼は国際自然保護連合(IUCN)の種の保存委員会の一部門、「野生生物保全繁殖専門家グループ」の議長だ。

     「非常に多くの動物種が、動物園の提供できるノウハウを必要としています。保護を必要としない動物の飼育から徐々に手を引き、空いたスペースで保護の必要な動物を飼育する、という流れになってくれるといいのですが」

     動物園が飼育下での繁殖に力を入れているおかげで、どうにか絶滅を免れている動物が現に存在する。

    ※ナショナル ジオグラフィック10月号から一部抜粋したものです。
    編集者から

     パンダやライオンは人気があるけれど、両生類は集客力が乏しい――こうした状況は日本でも同じでしょう。大きな動物を飼育するには、広いスペースだけでなく、餌代や設備維持費などの負担も大きくなります。動物園が現代版のノアの箱舟になれるかどうかについては、動物園に足を運ぶ側の私たちにも責任があると感じました。(編集M.N)

  • 9月号に続き、コンゴ民主共和国の特集が印象的だった。

    コンゴは、ダイヤモンド、金、コバルト……等々、
    埋蔵資源の規模は数百兆円、数千兆円とも言われているらしい。
    けれど、世界で最も貧しい国である。

    普段私達が使っているPCやカメラ等の電子機器、それに宝飾品。
    それに使われる鉱物が、コンゴの紛争の資金源になっていると知ったら。
    コンゴの人々の貧困、年端もいかない少年兵を生み出していると知ったら。
    考え方を改めざるを得ないですね。

    2010年にアメリカで成立したドッド=フランク法。
    恥ずかしながら、私は初めて知りました…。
    アメリカの上場企業は、自社製品に使用する鉱物が、
    コンゴの武装集団が支配する鉱山に由来するかどうかを
    開示しなければならないという法律だそうです。

    コンゴの金鉱で働く少年達が、
    米と豆の入った汚れたバケツから順番に食べる写真。
    衝撃を受けました。

  • 今回の表紙はまたチャレンジング!写真のような紙質。アフガンの少女の写真は今までにも見たことはあったけど、表紙に大きく写すとやっぱり違う。訴えかけてくる力がある。125年の表紙を集めた付録も面白い。20世紀前半でだんだん黄色が濃くなってきた変遷がわかる。ここ数年購読してて知らなかったけど、英語版と日本語版で表紙の写真はけっこう違うんだ。

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