ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫)

  • 講談社 (1998年2月10日発売)
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感想 : 42
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2015.10.28
ソクラテスの弁明を読了。有名な無知の知が書かれている。魂(真善美)を売るくらいなら死をも辞さない哲人ソクラテスが訴えられ、自らの正当性を裁判所で主張しているシーン。問答のところは論理的と思いきや神のお告げ的な話もあり、屁理屈に聞こえなくもない部分もあったけど、それでも彼の生きる姿勢に単純に感動してしまった。解題に、ヴラストスの引くパイドンから引用し「われわれがその人となりを識ることを得た当時の人々の中で、最も優れ、とりわけ思慮に富むとともに最も正義にかなった人物」と書かれていたが頷ける。政治と正義の両立の困難の説明など、ただ頭でっかちに理想を述べるのでなく、できないことにはできないと一線を引く現実感覚もあるように思える。正しく生きることを貫くためには仕事も選ばなければならないということか。貧乏の慈善家とも言うように、世俗的な価値観や社会的地位に一切振り回されず、自分の思う真理、善、美をとことん追求し、そこから一切ブレない。それはどこか感覚的なものもある。論理的に理屈が通る前に、ダイモニオンというわけわからんもの(良心や理性のアンテナと解釈している)により正しさの指針を見出したりしているあたり、正義をとことん身体化していたのだろう。よりよく生きるとはという同じ問いを持つ者として、初めてと言っていいくらい、尊敬せずにはいられない歴史的人物に出会った気がする。きっと正しいを頭の中で理屈を立てるだけでなく、そのように実践行動し、生きたこと、そのことに対しての尊敬だろう。しかしまた現代においても、真善美を貫く魂の人ほど馬鹿を見る気がしないでもない。彼が恨みを買って死刑になったのと同様、人間の本来的な在り方を追求した生き方は社会と衝突し虐げられざるを得ないのかもしれない。そんな時、この魂に誓って真(嘘をついてない)で、善(正しい)で、美(美しい)であることがすべてで、それを貫くためなら非難も解雇も死も辞さない、魂を売るくらいならいかなる喪失、不当、迫害も甘んじて受けようという姿勢を、私は持てるか。厳しい。しかし、目指したい。

2015.10.28
同書掲載のクリトンを読了。「いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて、よく生きることだ」という彼の姿勢を、死刑判決後に脱獄を友人クリトンから提案されたことに対し逆に説得し返すという形で表現している。私はクリトンの提案に概ね賛成だった、故にソクラテスがどのようにクリトンに、そして私に納得させるようなことを述べるかと思いながら読んだ。果たして、ぐうの音もでない。国家と個人との関係まで考えてはいなかった。言わば彼は、親としての自分や個人としての自分より、アテナイという国家の中で生きた自分としての正しさから物を考えている。なぜなら国家がなければ親としての私も個人としての私も、生活に満足できなかったからのはずである。国家と契約し、個人的幸福と安定を享受できた以上、この国家にいることに満足していた以上、都合が悪くなった途端に国法を破るのは不正だと。彼のこの話を聞くまでは、国法を破るという不正と、親として子を養わないことの不正、言わば市民としての正義と親としての正義がぶつかってるのではないかと思った。しかし逆に彼の言う通り、仮に脱獄して子を養うと言っても、それで正しく養えるか、また正しく生きていけるかという問題になるのだ。彼にとっては、よく生きる、つまり幸福に生きることは正しく生きることと同義だった。故に、不正の元で生きることは不幸であり、不幸を決定されながら生き永らえることを選ばなかったわけである。これは無論、彼の幸福論、彼の価値観、彼にとってのよく生きることであり、我々は幸福=正しさとは、ならない場合もある。この違いはなんなのだろうか。この価値観形成に至る違いは何なのか。よく生きるということの中に、嘘を付かず、正しく、美しく生きるということがある。彼にとって最も大事だったのは正しさであり、それは正しくあるべし、ではなく、彼にとって、正しくある=幸福であり、不正=不幸だったわけである。だからこそ、彼にとって正しいか否かは、人生の意義や自己の肯定にも関わる重大な問題であって、少なくとも私のようにTPOにて不正オッケーな人にとっては不正は幸福をそんなに傷つけない。ニーチェやハイデガーは、永遠回帰や良心の思想から、死ぬまでに自分の本来的な生、在り方を見つけることで、生まれ変わってもまた同じ人生を繰り返したいと思えるような生き方を見つけることで、死=無を克服できる、とした。死は終点ではなく制限時間であり、この時間内に自分の人生を肯定できる、自分の真善美に即した在り方、またはこれだけ一生懸命生きたんだから文句ないという肯定的な諦念を、見出せるかが人生の目標、生きる目的だという。ソクラテスはまさにその境地にいたのだろう。彼が現代に生き無神論者だったとしても、彼は死を克服していただろう。そして私の真善美とは何だろうか、よく生きるとは何か、それを考えさせられる。何か1つの決定的な喜びを得るのでなく、己の真善美を育て突き詰め、それを体現できる在り方、生き方(ソクラテスでいう対話により正義を語り合う生き方)を見出せた時、私も死を克服できるのではないか、人生を肯定できるのではないか。永遠回帰に必要なのは瞬間的喜びでなく、真善美を体現し生きる"状態"ではないか。この生き方を捨てるくらいなら死を選ぶ、と言えるほどの生き方の探求へ、真善美という価値観を育てながら、かつそれを直視し深め体現していく、そのためには、頭の中でかくあるべし、ではなく、そうあるのが当たり前の状態まで、真善美を身体化しなければならない。ソクラテスは正しい、しかしそれを理想論として実行はできない、彼のように正義=幸福となるまで、善を身体化しなければ。これはどうすればできるのかが今後の私の問いである。

2015.10.28
クセノポンによる、ソクラテスの弁明を読了。プラトンのそれとは一味違った魅力があった。ソクラテスがアポロドロスの頭を撫でながら、「親愛なるアポロドロスよ、きみはぼくが不当な裁きの結果死ぬのを見るよりも、正当な裁きの結果死ぬのを見るほうがよいのかね」と言いながら微笑したというのは、なんともグッとくるものがある。人生の後半ではエロス獲得から死への準備へと関心が変わるというが、老いを間近に、不幸なる生よりは幸福な死を、という心情は、私も歳を取らねばわからないだろう。よりソクラテスを身近に感じることができる作品だった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2015年10月27日
読了日 : 2015年10月27日
本棚登録日 : 2015年10月27日

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