パンセ (中公文庫 D 8)

  • 中央公論新社 (1973年12月10日発売)
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感想 : 51
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2016.10.25
第8章までで断念。どうも宗教に関することは入って来にくい。が、学びは多くあった。実存哲学の先駆けとも言われるパスカルの人間洞察は、確かにと唸らせるものがある。人間は悲惨な存在であるという。考えたいのは、実存と愛について。
人間存在、実存は、悲惨であるという。全てを知ることもできなければ、また全てを知らないということもできない。自分の存在の意味、生きる意味も知らなければ、生まれた瞬間に死が決定されている。このような自分の存在の悲惨さから目を背けるために、気晴らしをするのが人間だという。狩をするのは獲物を手に入れたいからではない。狩をすることで自分の存在の悲惨さを忘れるためである。そんな人間の悲惨さを救済するのが、キリスト教であるという。しかし多くの人間は、神の存在を認識できないが故に無神論者となり、また神とは〇〇であるとか、真理とは〇〇であると自分で決めつけることによって理神論者になる。ここには、自分の悲惨さを直視せず、神を信じないもしくは神に成り代わろうとする人間の傲慢がある。神が見つからないだけではなく、求めようともしないこのような人間にパスカルは閉口する。こうして人間の大半の状態は、絶望と高慢であるという。自らの存在の矮小さに苛まれる人間の絶望は、神なしでは絶えることはできない。自らの存在の汚さを直視しない傲慢さは、それもまた神から最も遠いという。人間が救われるためにはキリストを信仰せねばならない。神の存在は人間を超越している以上、人間の理性で神の存在を証明できるはずはない。しかし、求めるものは世界の中に神を見いだすことができる。この著の最初の部分に、理性的認識と感性的認識について書かれていたが、まさに神とは、幾何学や論理学のように証明できるものではなく、感じるもの、しかし確実にその存在を直感できるものであり、その直感の条件として、神を求めることが前提としてあるのだろう。故に、求めなければ、見えない。神の存在を知ることによって、人間は救われる。そのためにはまず、人間の高慢を改め、人間存在の矮小さを徹底的に自覚しなければならない。私はゴミ以下の存在であることを芯から理解せねばならない。気晴らしや、高慢になることなく。その上で救いを神に求めた時、神の愛に気がつく。私は神と一体であったことに気がつく。死後の永遠の生が約束される。絶望の深淵に降り立つとき、人はその絶望の原因を、乗り越えることができるわけである。このとき人間は、悲惨な存在でありながら、絶望も高慢でもない、という状態に行き着く。
私は無神論者である。2億人いる仏教徒の一人である。私は宗教とは人間の生み出した発明だと思っている。そんな私が、このパスカルの宗教への帰依に深く共感したのは、私は神とは別の経験で、この状態を知っている、経験しているからである。それは私にとって、「愛されるためには」という問題であった。私は愛されるために、いい子であろうと生きてきた。しかしいい子であることで愛されてきた、というより、私は「好かれて」きたのであって、私でなく、私の能力や振る舞いなど性質が好かれたのであって、この私が愛されているのではないと、無意識的に感じてきた。その後、諸事があり、絶望に堕ち、いい子アイデンティティは崩壊した。しかしその崩壊した、つまり「いい子」ではない私になって初めて、それでも私と関係を持ってくれる他者に対して、私は「ああ、愛されてるな」と思えたのである。私にはこの問題が理解できなかった。人当たりがいいから愛される、これは論理的である。しかし、私は畜生であるという自己認識に陥った時、それでも私を好きでいてくれた人は、なぜそうだったのだろう、それがわからない、そして、それがわからなく、非合理故に、私は私の性質や属性が愛されているのではなくこの私という存在が愛されていると感じた、実感できたのである。メタ視点での愛されている状態とは、わかりやすくイメージできる、しかし主観に立った「愛されているという自覚を伴った経験」は、そうはいかない。それは理性や論理を超えたところにある以上、経験無しにはその存在にも気がつかない。こう考えると、私が愛されていると頭でわかるのでなく、主観的に実感できる条件とは、「その愛に理由がなく非合理で説明がつかない、つまり無条件の肯定」であるということがわかる。私はこの機能を、宗教が担っていたのではないかと考える。パスカルはいう、自分の悲惨さを直視し、自覚し、それでもなお神に救いを求めるものに、救いは与えられる、と。救いとは、愛とは、神からの恩恵なのであって、こっちが働きかけて得られるものでもなく、論理的に説明がつくものでもない。故に、私はこんなにもクソでカスでとても神の愛に値しないという絶望が、それでも神はあなたになぜか愛を与えることにつながり、無条件の肯定を受けた人間は、自分が悲惨な存在であることを知りながら、その存在のまま肯定してくれた神を崇め、高慢になることもないのである。私の「受愛の実感」という経験と、この神の愛の経験のパラレルは、何か意味があるのではないか。私は宗教は、人間の発明だと言った。もっと言えば、人間の実存的欲望が生み出した発明だと考える。人間の無意識的かつ根源的な欲望に、このような愛への欲求があるのではないか。この欲望が長い時間をかけて無意識的に、宗教という物語を創作したのではないか。またその受愛の実感の起源は、我々は赤子の時、何もなせず、一人では生きることもできなかったとき、親から愛されたという、まさに無条件の肯定の経験を起源にしているのではないか。なんて考えたりした。人間の実存として愛への渇望があり、その渇望を救済する装置として宗教が存在しているのであれば、私のような無神論者にとっても宗教は興味深いものになるな、と思う。
加えて、もし無条件の肯定が受愛の実感の条件であり、人間がその存在の根底で求めているものがそれだとするならば、いい子、すなわち自分が正しいという理由で愛されるということは、愛ではなく「好かれる」ということであり、ここには求めていることと得ていることのズレがあることになる。思い出されるのは、大人しくていい子のブチギレ、そういう子に限って何をするかわからないという現代の風潮である。親に愛されなかった人間は、やはり愛の欠乏故に自己愛的になる、これは論理的にわかる、けど、いい子ねと育てられた人間もまた、自己愛的になる。なぜか、彼は彼の性質を愛されていたのであって、彼が愛されているという実感を持てなかったからである。その意味ではいい子の方が、自分が愛されているという勘違いを生みやすいという意味で悲惨である。一方は自分の努力如何に関わらず愛されなかった肯定されなかったという欠乏であり、もう一方は愛される努力をした故に、愛されたが、それは好かれただけだった、愛は受けられなかったという欠乏なのである。そしてこの意味での「受愛」の実感の有無と、自己愛は反比例する。つまり自己愛が高い人間ほど非合理的な愛の実感及び経験の記憶がなく、あるほどに自己愛は緩む。愛をめぐるこのような問題は、是非とも考えていきたい問題だと思った。あとはー、パスカルの人間洞察の皮肉な感じ、パスカルの賭けに見える信じるということの意味、人間は考える葦であるという有名な名言、理性的認識と繊細と呼ばれた感性的直感との違いとか、面白かった。「哲学を馬鹿にすることこそ真の哲学」だという意味は、頭だけで考えた哲学を、頭と心で、この目で見てこの体で感じたもので考えることで乗り越えろ、という意味と受け取った。そういう哲学人でありたい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2016年10月25日
読了日 : 2016年10月25日
本棚登録日 : 2016年10月25日

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