江戸の本屋と本づくり―続 和本入門 (平凡社ライブラリー)

著者 :
  • 平凡社 (2011年10月11日発売)
3.25
  • (1)
  • (1)
  • (1)
  • (0)
  • (1)
本棚登録 : 80
感想 : 5
5

・橋口侯之介「江戸の本屋と本づくり 【続】和本入門」(平凡社ライブラリー)はその書名通りの続編である。ただし、「本書では、ものとしての書物を見るだけでなく、本を売る立場の視点、読者の側の見方などに力点を置いた。背景にあった本にかかわった人たちのメンタルな側面を明らかにしたいという動機から書いた。」(277頁「平凡社ライブラリー版あとがき」)とある。最近流行りの読者論、読書論以前の本屋と本作り、つまり本を作つて売る人達のことを考へようといふのである。少なくとも、これまでの書誌学にかういふ視点は欠けてゐた。もしかしたら、著者橋口氏が古本屋だからこそ出てきた視点かもしれない。
・第一章は「和本はめぐる」と題されてゐる。副題は、復元、江戸の古本屋である。なぜ新本屋ではないのか。「江戸の古本屋というときは、当時の本屋の一営業部門を指」(19頁)し、当時の「書物文化を総合的にとらえるためにぜひ知っておきたいこと」(20頁)だからである。江戸の本屋は新本も古本も売つてゐたのである。のみならず貸本屋も兼業し、更には版木まで扱つてゐた。本屋は、本を作つて、売つて、貸して、そして買つて、現在からは考へられないほど広い営業範囲をカバーする「書籍の総合商社的存在だった。」(19頁)のである。その貸本と古本、私は知らなかつたことである。行商的な貸本屋がある一方で大規模な貸本屋もある。これで貸本は間に合ふと私は思つてゐた。さうではなかつたらしい。顧客の要望にすべて応へるには新本販売だけでは無理といふことであらう。だから、新本で用意できなければ古本を売り、時には貸本にも応じる。古本を扱ふ理由もここにある。さうして今一つ、これもまた私は知らなかつた。第五章「写本も売り物だった」(183頁)、さう本屋は版本だけ売るのではなかつた。写本もまた商品だつたのである。私は写本は所謂古写本が中心で、江戸に入ればほとんどが版本になつて流通してゐたと思つてゐた。ところがさうではないのである。版本にできない理由はいろいろある。売れないから商売にならない、禁書である等々、かういふ場合は写本にするといふのである。活字版といふ手もあつたらしいが、写本の方が手軽である。原本を写し、その写本を写しで禁書も広がつていく。少部数でも金がなければ写本にする。きちんと製本すれば安上がりに商品となる。そんなわけで、江戸の本屋には写本がかなりあつたらしい。第五章の最初の小見出しは「現代に残る写本の多さ」(同前)といふ。正編「和本入門」では「版本に重きを置いて述べた。」が「それでは和本の半分しか語っていないことになる。」さう、「江戸後期になっても、写本が数多くつくられていた。」(同前)のである。これは驚きであるが、無知も甚だしい。実は手元に1冊だけ写本がある。新しさうである。かういふのもその1冊といふことにならうか。これがいかなる来歴を持つのか全く不明だが、何人かによつて書写されて流通し、私の手元に来た。私は現代の古本屋で買つた。江戸の古本屋はかういふ書を歴とした現役の商品として扱つたのである。その延長線上にあるはずの「貸本屋は写本も貸した」(207頁)といふこと、その結果、「写本の豊かな広がり」(194頁)が生まれ、「写本の影響力は大きかった」(203頁)といふことになる。かういふ写本の世界を初めて知つた。先の古本とともに、江戸の本屋を現代の本屋から考へてはいけないと知つた。現代は分業の時代、江戸は総合の時代、だから版本を作つて売るのは当然として、写本や古本も売り買ひし、貸し出した。こんな豊かな本屋の世界がここにある。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2011年12月18日
読了日 : -
本棚登録日 : 2011年12月18日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする