ジョック・ヤングの『排除型社会』を読んだ直後であったのであまり驚きを受けることもなく淡々と読み進められた。
あらゆる権威が無効化され非正規雇用が珍しくなくなった後期近代、ましてやノルウェーのウトヤ島乱射事件の犯人ブレイヴィクが羨望するほどの閉鎖的・不寛容的政策を取っている日本で在特会のような存在が登場するのは必定である。著者が『在特会は「生まれた」のではない。私たちが「産み落とした」のだ。』と言っているのはそのような文脈においてであろう。
言うまでもなく、現代の経済活動に生き生きと生を謳歌する個人は全く重要ではない。ただミスなく粛々と働く「マシーン」さえいればいい。実際人間が行なっていた労働は機械が取って代わり、他の労働の多くも日本人にやらせる意味はなくなってしまった。
経済市場とそれに適応した政策下に「産み落とされた」在特会という「うまくいかない人たち」。彼らは現在の日本社会というシステムの生産品である、故に(一部ではあるが)その活動を承認する人間がいるのは当然である。しかしその承認はただ都合がいいからなされるだけで、彼らの孤独を癒すものではない。また在特会の「仲間」たちの承認もモルヒネでしかない。確かにまるでサークル活動のようにみんなでワイワイ騒ぐのは楽しいことだろう。野球場での応援のごとくみんなで同じ言葉を一斉に口にする愉悦は身が溶けてしまいそうなほどだろう。だがそれはやはり刹那的快楽にすぎないのだ。
刹那的快楽を是とする資本主義によって産み落とされ、それを謳歌する者たちを恨み怨嗟している在特会。にもかかわらずその快楽の調達方法が資本主義的であるというのはあまりにも皮肉な話である。
- 感想投稿日 : 2012年7月16日
- 読了日 : 2012年7月16日
- 本棚登録日 : 2012年7月16日
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