我々はどのようなルールに従うべきか。
個人の選り好みやその時々の状況(カントの表現では「傾向」)を完全に排除し普遍性を追求しつつ、カントはこの問いに対する答えを導く方法を示した。
本書に書かれている順番を少し入れ替えてカントの推論を整理すると次のようになると思う。
人間の意志は自由である
⇒「自由な意志」にも従うべき法則(格律=マイルール)がある
⇒その法則の立法者は自分自身である
⇒その法則は普遍的な法則でなければならない
カントによれば、自由とは「存在者を外的に規定するような原因にかかわりなく作用」(p140)することができるということだという。すなわち「或る状態をみずから始める能力のこと」(p140 訳註二 ※『純粋理性批判』からの引用)
人間以外の動物はただ自然法則にのみ従って生きているが、人間は自然法則に縛られることなく思考したり行動したりすることができる。
かといって、「自由な意志」は完全なアナーキー状態ではない。まったき自分勝手が許されるか。否、「自由な意志」は「自分自身」という法則に従うのである。そしてその法則は自分に都合のよいものではなく、普遍的なものでなくてはならない。
以上のことが有名な
「君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲しうるような格律に従ってのみ行為せよ」
という格言に表現されている。
自分が従うべきルールを自分で作るという、一見して循環論を孕んでいそうなこの問題を、カントは一人の人間は「悟性界」と「感性界」という二つの世界に属するものであるとして解決した。
すなわち、立法者としての自分(=悟性界に属する自分)と義務に従おうとする自分(=感性界の自分)の二つの人格が一人の人間の中に共存しているという。
また、カントは、自由である人間は、手段としてではなく一人一人が「目的」として扱われなければならないと論ずる(個々人の人格の尊重)。
「およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する(略)すなわちあれこれの意思が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、(略)いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」(p101)言い換えると「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」(p103)
(ちなみに、ここから自殺否認論が帰結する。)(p104)
カントの道徳論は理路整然としていて理解しやすい。「傾向」というノイズを排除し純粋に論理的妥当性、普遍性を追求しようとする態度は、自然科学にも通じるものがあるように思う。
- 感想投稿日 : 2014年6月6日
- 読了日 : 2014年6月3日
- 本棚登録日 : 2014年3月23日
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