NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2013年 06月号 [雑誌]

  • 日経ナショナルジオグラフィック社 (2013年5月30日発売)
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2013年6月号の目次
リスクの先へ

人間が多くの危険を冒してまでリスクに挑むのはなぜか。謎を解くカギは、脳の神経伝達物質にあった。

文=ピーター・グウィン

 なぜコロンブスは大西洋横断の航海に乗り出したのだろう。
 なぜジェンナーは少年に天然痘ワクチンを試したのだろう。
 なぜフォードは自動車が馬に替わる可能性に賭けたのだろう。

 人間がリスクに挑むメカニズムを探ろうと、神経系のある領域に注目が集まっている。焦点となっているのは、脳内の情報伝達を担う神経伝達物質だ。

 リスクへの挑戦に決定的な役割を果たす神経伝達物質の一つにドーパミンがある。ドーパミンは運動能力の制御に関わる一方で、私たちが新たなものを探し、学ぶように仕向けたり、不安や恐怖といった感情を処理したりする手助けをする。パーキンソン病の患者のように、脳内で十分なドーパミンが生成されない人は、しばしば無関心や意欲の欠如といった問題を抱えることになる。

 反対にドーパミンが大量に生成される人たちこそが、リスクへの挑戦に関する謎を解く鍵を握っていると、米ワシントン大学の神経生物学者ラリー・ズワイフェルは語る。

「山に登る、会社を興す、選挙に立候補する、海軍特殊部隊に入るなど、リスクを冒してまで何かを成し遂げようとする人々は、強い意欲に突き動かされています。そうした意欲をかき立てるのがドーパミン系なんです」
「限界に挑む人物」のレシピ

 私たちが課題を成し遂げた時、ドーパミンは満足感を引き出す働きをする。課題が危険なものであるほど、ドーパミンの分泌量は増える。誰もが山に登ったり、選挙に出馬したりするわけではないのは、ドーパミンの分泌量が人によって違うからだ。そして、その量を制御するのが、神経細胞の表面にある自己受容体である。

 米バンダービルト大学の研究チームは、実験参加者の脳をスキャンし、報酬や依存、運動などに関わる神経回路の自己受容体を観察した。自己受容体が比較的少ない人、すなわちドーパミンが流れやすい人は、新奇なもの(たとえば探検など)を求める傾向が強かった。

 「ドーパミンはガソリンのようなものだと考えてください」と語るのは、研究チームのリーダーで神経心理学者のデビッド・ザルドだ。「そこに普通よりはブレーキのかかりにくい脳を組み合わせれば、限界に挑む人物のでき上がりです」

 このような議論をしていると、常に出てくるのが「アドレナリン」である。リスクに挑む人々、すなわちリスク・テイカーはしばしば極端なスリル好きやアドレナリン中毒者と混同される。

 アドレナリンはホルモンの一種で、これもまた神経伝達物質の一つである。

 だがドーパミンが目標達成の過程で人を危険に向かわせるのに対し、アドレナリンは危険の回避を助けるよう設計されている。私たちが脅威を感じると、血中にアドレナリンが分泌され、心臓や肺、筋肉などが刺激される。そうすることで、命に危険が迫る状況から逃れたり、戦ったりしやすい態勢が作り出されるのだ。

 つまり、アドレナリンが探求者たちをリスクに挑むよう仕向けているのではない。 「北極探検家が何カ月もかけて氷上を進めるのは、ドーパミンのおかげです」とザルドは言う。

※ナショナル ジオグラフィック6月号から一部抜粋したものです。
編集者から

「人は誰しもリスク・テイカーの子孫」であるという事実を解き明かします。後半ではいつもより多くのリスク・テイカーたちを紹介していますが、なかでも衝撃的だったのが、スカイダイビングで音速の壁を超えたというオーストラリア人男性の話。高度3万6300メートルの成層圏から飛び降り、最高速度は1350キロを超えたというのだから、正気の沙汰とは思えません……。でも、彼と私たちの違いは、ある脳内物質のちょっとした量の違い。その答えは、この特集にあります!(編集M.N)

深海への挑戦

世界で最も深い海への旅。その一部始終を映画監督ジェームズ・キャメロンの手記でお届けする。

文=ジェームズ・キャメロン/写真=マーク・ティッセン

 映画「タイタニック」や「アバター」で知られる映画監督のジェームズ・キャメロンは、2012年3月、マリアナ海溝チャレンジャー海淵への潜航を成功させた。人類がその世界最深の海底に到達するのは史上2度目で、かつ単独での潜航は世界初の快挙だ。

 未来的なデザインの有人潜水艇「ディープシー・チャレンジャー」の設計から携わり、7年越しの夢をかなえたキャメロン自身が、『ナショナル ジオグラフィック』誌に手記を寄せた。
いざ、深海へ

2012年3月26日 5:15am
北緯11度22分、東経142度35分
(西太平洋 グアム島の西南西)

 夜明け前の海は真っ暗だ。太平洋の荒波が頭上でうねり、「ディープシー・チャレンジャー」が前後左右に大きく揺れる。昨夜は2、3時間横になったが、あまり眠れなかった。

 私たちは真夜中に起き出し、潜航前のチェックを開始した。チームのメンバーは全員、緊張していた。これまでの調査航海で最も厳しいコンディションだ。外部カメラを通して、二人のダイバーが狭い操縦室のすぐ外側で潜水艇を降下させる準備をしているのが見える。

 操縦室は直径109センチの鋼鉄製の球体だ。私はそこに、殻の中のクルミの実のように小さく押し込められている。背を丸めて座り、両膝を踏んばり、頭を自由に動かすこともままならない。これから8時間、この姿勢のままでいることになる。

 私は長年、この瞬間を夢見てきた。ここ数週間は、あらゆる非常事態について考え続け、恐怖に駆られる瞬間もあった。それでも、今の気持ちは驚くほど平静だった。私はこの潜水艇の共同設計者として、あらゆる機能と弱点を熟知している。数週間の操縦訓練を経て、もはや考えなくても反射的に手が動き、パネルやスイッチを操作できる。
潜航準備、完了

 現時点で不安はない。あるのは目的を必ず果たすという決意と、この先に待ち受ける体験への期待と興奮だけだった。

 よし、やってやるぞ――私は深呼吸をしてから、マイクのスイッチを入れた。

「潜航準備、完了。さあ、浮き袋を外してくれ」

 リーダー役のダイバーがロープをぐいと引っ張り、浮き袋を外す。潜水艇が急降下を始めた。波打つ海面にいるダイバーたちが瞬く間に小さくなり、やがて見えなくなった。後に残されたのは闇だけだ。計器の画面表示をちらりと見ると、1分間に150メートルの速度で降下している。

 わが生涯の夢が、かないつつあるのだ。7年がかりで潜水艇の開発に取り組んできた。完成までの数カ月も苦労の連続だった。ストレスとさまざまな感情が入り交じった航海を経て、ついに今、世界の海で最も深いチャレンジャー海淵への潜航が始まったのだ。

※ナショナル ジオグラフィック6月号から一部抜粋したものです。
編集者から

 映画「タイタニック」でお馴染みのジェームズ・キャメロンによる独占手記。閉所恐怖症気味の私は、鉄の球に閉じ込められ、体を丸めた状態で何時間も深海に潜るなんてことは、想像するだけで恐ろしいですが……。宇宙よりも調査が難しく、いまだ多くの謎が残る深海の探査とはどんなものなのかを知っていただける記事です。臨場感たっぷりのルポをお楽しみください。(編集M.N)

アボリジニ 祖先の道をたどる

先祖伝来の地で細々と伝統を受け継いで暮らす、オーストラリアの先住民アボリジニ。彼らの文化は守られるか。

文=マイケル・フィンケル/写真=エイミー・トンシング

 アボリジニは、5万年も前からオーストラリア大陸に暮らしてきた先住民だ。しかし、今ではこの国の全人口に占める割合は、3%にも満たない。

 200年ほど前まではずっと、オーストラリア大陸は、彼らだけのものだった。

 かつてアボリジニには250の異なる言語が存在していたが、文化や宗教には共通する部分も多い。少人数で狩猟・採集をしながら広大な大陸を移動する暮らしを営んできたが、1770年4月29日に英国の探検家ジェームズ・クックが南東部の海岸に上陸してから生活が一変する。その後2世紀にわたり、虐殺、病気の流行、アルコール依存、強制同化、土地の収奪といった文化抹消の嵐が吹き荒れた。
現代的で伝統的な生活

 現在、オーストラリア北部に位置するアーネムランドでは、マタマタ村をはじめ数十カ所の村で、昔ながらのアボリジニの暮らしが営まれている。村と村をつなぐのは未舗装の悪路で、雨期には交通が寸断される。

 しかし、アーネムランドは現代社会から隔絶されているわけではない。太陽光発電の設備はあるし、衛星電話も通じる。ボートはアルミ製で、薄型テレビにはDVDプレーヤーが接続されている。

 それでも、とげだらけの灌木が茂り、ヘビや虫やワニが出没する土地には、外部の人間はおいそれと近づけない。もし若い世代が狩猟採集生活を嫌がり、スーパーマーケットで手軽に買い物ができる生活を選べば、伝統はそこで途絶えるだろう。

 マタマタ村は25人ほどが住む小さな集落だ。村に入るには、村を取りしきるフィリス・バトゥンビルの許可が必要だった。村に通じている電話回線は2本だけ。1本はバトゥンビル専用で、残りは村人が共同で使っている。
 その専用回線にかけると、バトゥンビルが出た。

 彼女は現地語のヨルング・マサ語と英語を話し、アーティストとして生計を立てている。自分の髪の毛でこしらえた絵筆を使い、アカエイやトカゲといった神聖な生き物を、樹皮や中空の丸太に描く。ヨルング族はアボリジニの名前の前に英語風の名前をつける人が多いが、彼女はアボリジニの名前で呼ばれるのを好む。

 宿泊費も食費も払うから、2週間滞在してもいいかと尋ねると、バトゥンビルは了承してくれた。ほかに持っていくものはありますか? 私の問いかけに、こんな答えが返ってきた。
 「夕食を25人分お願いね」
腹が減ってるんなら、カメを捕っておいで

 それに応えて持参したスーパーの袋に入った大量の食料品を、バトゥンビルは検分する。
 ステーキ肉と野菜、缶詰、ジュースのパック。これを全部くれるのかと尋ねるので、もちろんだと私は答えた。

 しばらくすると村人が集まってきた。マタマタの住民はみんな親戚どうしで、バトゥンビルの子どもや孫のほか、兄弟や姪も一緒に暮らしている。私が自分用に買ったおやつも含めて、あっという間にすべて持っていかれた。

 私の表情で察したのか、バトゥンビルが言った。
「腹が減ってるんなら、この子たちについていって、カメを捕っておいで」

※ナショナル ジオグラフィック6月号から一部抜粋したものです。
編集者から

 2009年12月号「ハッザ族」や2012年1月号「北極圏の犬ぞり警備隊」など、辺境の地から体当たりのルポを届けてくれているジャーナリストのマイケル・フィンケル。そんな彼が、アーネムランドにあるヨルング族の村に2週間滞在して、伝統的な暮らしにどっぷり浸かってきました。本文冒頭のウミガメ漁のエピソードから、ストーリーにぐぐっと引き込まれます。

 写真は、写真家のエイミー・トンシングが3年以上かけて撮影しました。1枚1枚じっくりご覧ください。電子版では、アボリジニの珍しい儀式を動画でお楽しみいただけます。(編集T.F)

満員のエベレスト

商業登山の広がりで、危険なまでに混雑するエベレスト。世界最高峰の惨状に解決策はあるのか。

文=マーク・ジェンキンス

 今、私たちは標高8230メートルの高所で、ほかの登山者と接触しそうな過密状態のただ中にいる。これでは体力や能力と無関係に、全員が同じペースで前進を続けるしかない。

 真夜中近く、見上げると、一列に連なったヘッドランプの光が暗黒の空へと続いていた。眼前にそびえる斜面を100人以上がゆっくりと登っていく。

 ある岩場では、ひどく曲がった1本のスノーピケットが氷に打ち込まれ、くたびれたロープを支えていた。このロープを頼りに、少なくとも20人が登攀中だ。

 万が一、このピケットが抜けたら、全員が転げ落ちて死ぬだろう。
2時間を超える登頂待ちの列

 私たちの今回の遠征は、1963年の米国エベレスト遠征隊の快挙から50年を記念して企画された。

 だが実際に私たちが目にしたエベレストでは、登山をとりまくさまざまな問題が大きなひずみを生んでいた。

 今から50年前、1963年の登頂成功者はわずか6人だったが、2012年の春は500人を超えた。

 私が登頂した5月25日、山頂には人々がひしめき、身の置きどころもなかった。眼下のヒラリー・ステップでの登頂待ちは2時間以上に及び、列をなした人々が寒さに凍えながら体力を消耗していた。ヒラリー・ステップは登頂までの最後の難関、高さ12メートルの岩壁だ。

 私は今回の登頂で、4体の遺体を見ている。好天でもこのありさまだから、1996年にあったような嵐に襲われでもしたら、多数の死者が出ていただろう。
登頂できて当然という考え違い

 エベレスト登頂は昔から登山家の“勲章”だった。だが、4000人近くが登頂し、複数回登る人々もいる現在、その意味は半世紀前とは違ったものになりつつある。

 今や山頂を目指す人の約9割がガイドを雇った“お客さま”登山者で、その多くは登山の基本的な訓練を受けていない。彼らのなかには、3万~12万ドル(約300万~1200万円)もの大金を支払うからには、山頂に到達できて当然という考え違いをする者も少なからずいるようだ。

 確かに大勢が登頂を果たしているが、その代償は大きい。“ノーマルルート”と呼ばれる北東稜と南東稜は、登山者の数が多すぎて危険なうえに、ごみや汚物だらけで、その惨状は目を覆いたくなるほどだ。

 登山者の遭難死も相次ぎ、2012年には私が南東稜で目にした4人を含めて、全部で10人(シェルパ3人を含む)が死亡している。

 この世界最高峰は、明らかに荒廃している。だがエベレストをよく知る人々に話を聞くと、今ならまだ改善の余地があるという。

※ナショナル ジオグラフィック6月号から一部抜粋したものです。
編集者から

 昨春のピーク時には1日に234人が登頂したという、世界最高峰の混雑ぶりにはあらためて驚かされます。正確な気象情報が得やすくなったことで登頂日が集中し、かえって混雑による危険が増大してしまうとは……。記事では、エベレストが直面する諸問題への解決策を探ります。

 ナショジオの支援した登山隊は昨春の遠征時に、エベレストから写真共有サービス「Instagram」などを使って、現地での日々をレポートしました。誌面に掲載された山頂からのパノラマ写真は、なんと女性隊員がiPhoneで撮ったものです。電子版では、隊員が投稿したその他の写真もご覧いただけます。(編集H.I)

モザンビーク 聖なる山の再生

長期の内戦で荒廃したアフリカ、モザンビークのゴロンゴーザ山。その自然を再生する動きが拡大している。

文=エドワード・O・ウィルソン/写真=ジョエル・サートレイ

 アフリカ南東部の国、モザンビークには、こんな神話が伝わっている。

 大昔、神は人間と一緒に山で暮らしていた。だが、当時の人間は巨人で、神に気やすく願い事ばかりしていたので、ある日神は嫌になって、天界へと引っ越してしまう。

 それでも人間たちは、山頂から手を伸ばして天界の神をわずらわせ続けたため、神はとうとう巨大だった人間の体を小さくしてしまった。以来、人間の暮らしは楽ではなくなったという。
動物のいなくなった山

 この山、つまり標高1863メートルの巨大なゴロンゴーザ山が、神の恩恵を失ったことは間違いない。この山麓地帯は国立公園に指定されていて、かつては世界屈指の生物多様性を誇っていた。ゾウやアフリカスイギュウ、カバ、ライオン、イボイノシシ、アンテロープといった大型動物が闊歩していた。

 だが、ここが内戦の舞台となったのを契機に、その多くが姿を消してしまう。

 1975年、モザンビークはポルトガルから独立を勝ち取ったが、数年後には激しい内戦が始まり、それは15年以上も続いた。

 1960年に植民地政府が設立した国立公園は戦場と化し、本部事務所も観光施設も破壊された。

 内戦が終結し、民主的なモザンビーク政府が安定するまでの10年間、ゴロンゴーザ国立公園は荒廃したままだった。

 この国に興味を抱いていた米国の企業家グレッグ・カーは、その間、支援する方法を模索していた。そして、インターネット・サービスなどで巨万の富を築くと、2004年に公園の再生計画作りを支援する取り決めをモザンビーク政府と締結。自ら再生に着手し、費用の大半を私財でまかない、多くのプロジェクトを成し遂げた。

 モザンビーク観光局は現在、公園の管理と開発に関する長期的な提携をカーと結んでいる。
24時間限定、みんなでいっせい生物調査

 だが、傷ついた公園を元に戻すのは、新しい公園を建設するよりもはるかに困難だ。公園内でも、とりわけゴロンゴーザ山は危機的状況を脱したと言える段階ではない。

 内戦中に横行した略奪から逃れようと、農民たちは山の上に向かって少しずつ畑を移動していった。やがて山頂の雨林まで追いやられた彼らは、高木を切り倒し、水分をたっぷり含む肥沃な土壌をトウモロコシやジャガイモの畑に変えていった。そのため、この10年間で雨林の3分の1以上が消滅してしまったのだ。

 ただ、最近になってようやく動物たちが戻ってきた。2010年にモザンビーク政府が、一帯の水源であるゴロンゴーザ山を公園に編入したことも大きい。

 ゴロンゴーザ山における生物多様性を調査するため、グレッグ・カーと私は山裾に住む人々を巻き込んで「バイオブリッツ」を実施することにした。バイオブリッツとは、一定の時間(通常は24時間)内に一定の地域内で見つかる生物の種を特定し、記録する調査だ。地元の子どもたちの参加を募った。

※ナショナル ジオグラフィック6月号から一部抜粋したものです。
編集者から

 筆者のE・O・ウィルソンは、今年で84歳になる生物学者。アフリカへは初めて訪れたというこのモザンビークの旅は2年前の夏ですが、いずれにしても80歳を超えてからのフィールドワークとなります。その学者魂は「あっぱれ」のひと言。こんなかっこいい年のとりかたをしたいものです。(編集H.O)

ノルウェー 消えゆくクジラ捕り

ノルウェーで受け継がれてきた捕鯨の伝統が失われようとしている。その背景にあるものとは?

文=ロフ・スミス/写真=マーカス・ブリーズデール

 日本と並ぶ捕鯨大国・ノルウェー。しかしこの国の捕鯨は斜陽産業だ。クジラが減ったからではない。ましてや捕鯨をめぐる複雑な政治背景のせいでもない。クジラ捕りになりたがる若者がいないのだ。ノルウェー北部の北極圏に位置するロフォーテン諸島で、捕鯨と人々の暮らしを取材した――。

「僕は現代のバイキングなんです」

厳しい寒さが肌を刺す冬の夕べ、港に帰る船の上で22歳のオッド・ヘルゲ・イサクセンはそう言って笑った。彼は、iPodでハードロックを聴きながら片手で舵をとり、空いた手で携帯電話を操作して、フェイスブックに近況を投稿する。

 彼の暮らすロスト島で漁師を志願した若者は、この10年間でイサクセンを含めて二人しかいない。遠くの都会や沖合の油田に行けば、もっと安全で、安定した仕事がある。だから若者は伝統的な漁に見切りをつけ、生まれ育った島を次々と後にするのだ。

 若者の流出は何とも皮肉な現象だ。ロフォーテン諸島ははるか昔から、野心的な若者を引きつけてやまない憧れの地だった。ここは1000年以上前から世界有数のタラの漁場で、船と勇気とちょっとした運さえあれば、誰でも荒稼ぎできたのだ。

 この地域で商業捕鯨が始まったのは、タラ漁に比べればずいぶん後のこと。「自分の祖父の時代には、船でクジラを捕ったりはしなかった」と、83歳のオドバル・ベルンツェンは言う。「当時の船は、クジラを捕るには小さすぎたんだ。クジラが海岸のそばまで近づいてきたときには、仕留めて食べていたけどね」
50年前は1年で4741頭を捕獲した

 だが、その後、商業捕鯨は爆発的なブームを迎える。火薬で銛を発射する捕鯨砲の発明によって状況は一変、ノルウェーは世界有数の捕鯨国となった。

 最盛期を迎えたのは1958年。192隻が出漁し、ミンククジラ4741頭を捕獲した。しかし、すでに時代の風向きは変わりつつあった。1973年までには、捕鯨船の数はほぼ半数となり、その後も減少の一途をたどった。

 その背景にあるのは、クジラの保護よりも、むしろ経済的、社会的な要因だ。捕鯨は、元手がかかるが見返りが少ない。首都オスロのしゃれたレストランにクジラのステーキがあっても、鯨肉には大恐慌時代の食べ物、自然保護に反する食材といったイメージがあり、食料品店では冷遇されがちなのだ。

 ワシントン条約で取引の規制対象に指定されたこともあり、鯨肉の輸出先は事実上ないに等しい。ノルウェー政府はミンククジラの捕獲枠を年間1286頭と定めているが、実際の捕獲数はこれにははるかに及ばず、2011年はわずか533頭だった。

 反捕鯨の旗を掲げる国内環境保護団体のなかには、現役世代を最後に捕鯨の伝統は絶えるものとみて、そのさまを静観しているものもある。北大西洋におけるミンククジラの推定生息数は、健全なレベルの13万頭。ノルウェーの年間捕獲数なら、十分に持続可能な範囲と考えられている。

 もはや絶滅が懸念されるのはクジラではなく、クジラ捕りの方なのだ。

※ナショナル ジオグラフィック6月号から一部抜粋したものです。
編集者から

 記事では捕鯨というフィルターを通しつつ、ノルウェーの伝統文化が置かれている状況への危機感を伝えています。写真に出てくる女の子たちが着ているクラシカルなドレスは、民族衣装の一つなのだとか。以前訪れた八丈島の「黄八丈」を思い出すと同時に、世界各国、同じような問題を抱えていると痛感しました。(編集H.O)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: NATIONAL GEOGRAPHIC 2013
感想投稿日 : 2014年11月26日
読了日 : 2013年6月25日
本棚登録日 : 2014年11月24日

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