死海のほとり (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.77
  • (78)
  • (92)
  • (131)
  • (7)
  • (1)
本棚登録 : 1004
感想 : 89
5

■『死海のほとり』 遠藤周作著 新潮文庫

【全編4 メシヤ降臨とその再臨の目的】
 遠藤周作の力作です。イエスの歴史的実像とは一線を画し、我々においてのイエス、そして救いとは何であるかを問うています。追記にありますが、同著者の『イエスの生涯』と表裏をなす作品であるということです。『イエスの生涯』はイエス自身の歩みとその真実にスポットを当てていますが、こちらの『死海のほとり』はイエスを取り巻く群像の目線からイエスを描き、2000年後のイエスから離れることができない男たちの目線からイエスを語ります。
 原理の理解としては、後編のイエス路程よりも、前編の「メシヤの降臨とその再臨の目的」のほうが、内容的には該当すると思います。イエスによる救いとは何であったのか、がより大きな焦点であると思いますので。

 作中は二つの視点が対位法のように独立ながらストーリーを組み立てていきます。時代的に2000年の隔たりがある二つの視点ですが、内的にはイエスを軸として、外的にはイスラエルを軸としながら最終的にはイエスによる救いの真実を実存的に問いかける地点で着地します。
 一つ目の視点は<巡礼>というタイトルで括られたもので、現代に生きる男がイスラエルの旧友を尋ねるところから始まります。男はカトリックの家に生まれ、親に連れられるまま教会に通い洗礼を受けた過去があります。戦時中、キリスト教系の大学寮に入っていたため、ノサックという神父とコバルスキという修道士との関係が生まれました。様々な同僚と共に厳しい環境を学生という身分で過ごしていきますが、自覚的な信仰など持ち合わせていない男はぼんやりとその神父や修道士の姿を見つめていました。ここで同僚として過ごしていたのが、のちにイスラエルにおいて訪ねる友人、戸田です。生まれながらのクリスチャンとしてぼんやりと自覚もないままに信仰を持っていた男に対し、ここで信仰に目覚めた戸田は、皮肉屋でもありますがバリッとした信仰を持ち、潔い姿で毎朝の祈りもささげていました。
 この話で肝になるのがここで登場するコバルスキという修道士です。ユダヤ系のポーランド人のこの修道士は、手足は細く子供みたいで、異常なほど臆病で、修道士かと疑うほどに狡く姑息な性格でした。非力で何をやらせてもぎこちなく、寮生からは「ねずみ」とあだ名されていました。戦時中なので信教の自由も拘束され、神父や修道士もひっそりとしかいることが難しい時代でした。そんな中でねずみは自分を守ることに必死で、最後には修道士の立場も追われ祖国に帰されるようになります。その後の噂では、ナチスにつかまり収容所に送られ、そこで殺された、ということでした。
 時代がすぎ、現代。作家になった男は、いろいろな夢も破れ信仰も捨て、諦めの中で人生を過ごしています。仕事の関係でヨーロッパに来ていましたが、その帰りにふと、イスラエルにおいて聖書研究をしている旧友の戸田を思いだし、その元を訪れることにしました。再開してみると、戸田も信仰を捨てていました。しかし二人に共通することは、信仰は捨てていてもイエスから離れることができない。何時までも心に付きまとうイエスの影に心とらわれながら、二人はイスラエルの巡礼をします。ほとんど観光地と化したイエス所縁の地を巡り、歴史を講釈し現実を鼻で笑う戸田と、そんな乾いた説明を聞きながら一々心に刺さるイエスに、「ねずみ」を思いだす男。巡りながらそんなイエス像とねずみが分かちがたく結びつけられることを、男は不思議に思います。

 もう一つの視点は<群像>というタイトルのもとにまとめられた、2000年前のイエスと関係した6人の男の記憶です。奇跡を待つ男、アルパヨ、大祭司アナス、知事、蓬売りの男、百卒長の6人です。それぞれが何らかの形でイエスと関係をします。ある者は救われ、ある者は裏切られ、ある者は政治的に利用し、ある者はストレスのはけ口として、ある者は仕事の患いとして、ある者は同情するものとして。しかし全てに共通するのは、イエスを捨てるということです。この中のイエスは、本当に力がない姿で描かれます。人々に奇跡を求められても「私にはできない」と悲しき顔を浮かべ、病気の人がいればただそばで手を取って祈ることしかできない。「愛」ということがたびたび使われますが、愛とはこんなに非力なのかと、打ちのめされるほど、弱き姿で描かれます。
 描き方として巧みなのは、既成のイメージでイエスを見ることを極力避けるようにではないかと思うんですが、福音書に登場する主要人物の名前をあまり登場させません。特にアルパヨの視点からは、12弟子たちが直接描かれますが、そのままの名前をほとんど使っていません。アルパヨというのもアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)を指していると思いますし、最後まで共にいるシメオンはシモン=ペテロのことでしょう。ちょっと本が手元にないので、確認が難しいんですが、あと二三そんな弟子たちが出てきます。全部がそういうわけではないんですが、ある程度抽象化させながら、イエスの事実ではなく真実を伝える努力がうかがえます。そういう描写に導かれて、イエスの姿が浮き彫りにされていきます。

 最後の章で二つの視点が交わります。2000年前のイエスの真実。奇跡を起こした超人的なメシヤではなく、愛を尽くすことしかできなかった力ないイエス。そして二人の信仰を捨てた男が、それでも捨て切れることができずに心をつかまれたイエス。それは「同伴者イエス」という姿で結ばれます。
 収容所に送られたねずみの最後を知っている人物から手紙がきました。収容所でもどこまでもあざとく、自分を守ることしかできなかったねずみでしたが、年下の男(手紙の送り主)には多少優しさを見せることがありました。収容所なので労働力にならない人間はすぐに処分されてしまいます。そしてその死体に残る脂肪を集めて石鹸にされるそうです。非力なねずみは立場のある人間に阿りながら、なんとか死をまぬかれようとしますが、最終的には同じ受刑者たちからも捨てられ、獄卒からも労働力外の烙印を押され、死を突き付けられます。小便をたらし、涙を流し、動けないねずみですが、最後にひかれていく前、その男に一日一度の食事であるコッペパンを渡すのです。
 ひかれていくねずみのとなりにある幻が見えました。それは同じく足を引きずり、襤褸をまとい涙を流しながらよろよろと歩く男の姿でした。それは紛れもない、同伴者イエスでありました。
 
 救いとは何であるか、考えさせられます。奇跡では人間は変わりません。私たちの心が真実の愛を持たなければ、環境は変わっていかないのです。イエスができた事、それは共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣く、それだけだったというのが遠藤のイエス像です。イエスは語ります。「それでもあなたのそばにいる」と。どこまでもいぎたなく生きたねずみでありましたが、最後にコッペパンをあげます。ねずみは救われたなと、私は感じました。同伴者イエスの愛が最後にしてねずみの心に現れます。痛ましさの中にも、意味のある者が生まれてくることを感じるのです。

 あくまでも遠藤のイエス像です。聖書を拡大解釈している部分はもちろんありますが、イエスの愛の姿に大きく迫る名作であります。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: ④ メシヤ論
感想投稿日 : 2013年12月31日
本棚登録日 : 2013年12月24日

みんなの感想をみる

ツイートする