遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)

著者 :
制作 : 芸術新潮編集部 
  • 新潮社 (2006年9月21日発売)
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感想 : 9
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 初めて“悪事”を働いたとき、私は幼稚園児だった。

 日曜礼拝の終りに列になって献金するとき、私は1枚の十円玉を盗んだ。
 初めのうちは十円を五円玉2枚にしてもらって1枚だけ入れて五円玉1枚を自分のものにした。次は入れるフリだけして、十円をまる丸自分のものにするようにエスカレートした。ここまでなら、まだいい。だが最後には、入れるフリをしながら、献金用の黒いシルクハットの中に既入っていた1枚を握って手の中に隠してポケットに入れた。このスリリングな悪事でもって十円玉を2枚せしめた。どうしても二十円必要なワケがあった。公立の保育園に通う近所の子たちは、日曜といえば早朝からはザリガニ釣りに興じている。その流儀は、割りばしと糸を釣竿と釣り糸にしてイカのゲソ(足)を餌にするというもの。そのイカゲソを駄菓子屋で買うのに十円が必要だった。もうひとつ、「どんどん焼き」と称する屋台で焼いて売っているおやつもやはり十円であった。このクレープのような薄いお好み焼きを割りばしに巻いた食べ物は、今思い出しても青海苔とソースの焦げた香りがして来そうな美味この上ないおやつであった。お小遣いが一日十円だったからどんどん焼きを買って食うか、それとも食うのを我慢して餌のゲソを買うかは毎回深刻な問題であった。
 日曜にはいつも出遅れていた私だったが、悪事を覚えてからは状況が逆転した。池に着くとまずどんどん焼きを十円で買って食った。満腹になってから悠然とゲソをもう1枚の十円玉で買い、1本だけ残してコレも食い。余裕でどんどん焼きの割り箸と食べ残しのゲソを1本使って釣りの仕掛けを拵えた。保育園派の奴らは、捨てられた箸を拾って使ったり、釣ったザリガニの殻を裂いて出したハラワタを餌に使ったりしている。私は、貧民が大富豪を羨望の眼差しで見るような、真ん丸い目の視線を浴びながら、悠々と食い、釣りをした。貧乏人どもの何倍もよく釣れた。
 「神様はみてらっしゃいますよっ!」
 気づいていながら、遠まわしにたしなめた園長先生のお説教も、「へっ」としか思わなかった。私は生まれながらにして“ワル”なのだった。

 話は本題に移る。
 「そうだ、長崎に行こう」と急に思い立った。同時にこの一冊を持っていこうと迷わず思った。
 狐狸庵を自称する著者を、おとぼけが本性のおっさんだとつい最近まで思い込んでいた。『沈黙』も『海と毒薬』も読んだことがなかった。だから、狐狸庵先生がどういう経緯で大真面目に『沈黙』を書くに至ったのか、一番知りたかったのはそのことだ。
 先生自身の言葉と、長崎の各地に残るキリシタン関連の遺構、史跡の数々の写真を元に、遠藤文学が『沈黙』に至った軌跡を誠に丁寧に跡付けたのがこの一冊だ。私などが薄っぺらな言葉で評しても、遠藤文学の計り知れない深さを伝えられはしないでしょう。むしろこうとだけ教えてあげましょう。
 遠藤文学をより深く理解するには、長崎のみならず日本とキリスト教の歴史を真に捉えるには、そして自分自身の弱さに真に向き合い、他者の弱さにも慈しみの心を持てるようになるには、この一冊を手に長崎を巡りなさい。遠藤周作文学館を訪ねなさい。そして自分で考えなさい。それだけだ。

 私の巡礼の第一歩は、平戸のフランシスコ・ザビエル記念聖堂から始まった。そこで、参道といい公衆トイレといい、見事に掃き清められた様子を見た。どこの宗教施設でも見たことない、軽やかで明るい清々しさであった。
 伝来以来400年の時の長さと、その後250年の長きにわたる弾圧の歴史はもちろん承知している。だが、私が最も衝撃を受けたのは、「今ここを、心をこめて丁寧に掃いた人が確かにいる」という実感であった。
 その実感は、翌日探し当てて訪ねた枯松神社でも同じであった。隠れキリシタンの伝説の指導者を祀ったとされる異例の“神社”は、人里離れた山の奥に隠れて建っていた。そこも、やはり誰かの手で掃き清められ、人の姿は見えなかったが、「ミヤモト」と名の入った箒が石灯籠に立てかけたままになっていた。

 ザビエル聖堂で、入り口の扉を開けると、中は無人でしんと静まっていた。目に入ったのは木でできた献金箱がひとつ。反射的に私は、ポケット中の硬貨を全部握りしめている。大小十何枚かをザラリと入れた。ざらざらザラと余韻が響く。
 そんなことをしたからといって私は信者なワケじゃない。それに弱い心の持ち主だし、たぶん今でも悪い奴のまんまだ。

 けれども、「神様はみていらっしゃいますよ!」という半世紀近く前の声が、そのときの私には、聞こえた気がした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2011年2月27日
読了日 : 2009年11月9日
本棚登録日 : 2011年2月27日

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