スターリンとか独裁者はイメージがつけやすいから、みんな知ったような気になっている。とりあえず悪党。でもロシアでは偉大な人でもある。こういう人物こそきちんと知っておかなければいけない。
大事なのは、なぜ悪いのか。なぜ悪いことをしなければならなかったのか。冷静に知識を得ること。
この本は広く浅くスターリンを知る本である。そしてスターリン寄りのところもある。各歴史的事件についてウィキペディアを見ながら読むといい。
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p14 父の暴力、母の愛
スターリン(ソソ)は幼少期に酒飲みの父に母子ともに暴力を振るわれたと言われる。それ故に優しくしてくれた母への愛と英雄思想が生まれたという研究もある。しかし、当時のロシアでそういう家庭は珍しいものではなかっただろうから、それが決定的とは言えないから注意されたい。
p27 スターリンの性格
スターリンの性格を幼少期から検討しているものは、独裁者としての彼のイメージに合致する資料を用意してきているように思える。詩才などをみても、幼いころからそんなに暴力的だとは判断できないと思われ。
むしろ、学業も優秀で、詩の才能もあり、家族を愛する手紙など、多彩な才能の持ち主であったことだけはわかる。
p33 クリミア戦争
クリミア戦争で英仏に敗北したロシアはヨーロッパでの後進性が露呈した。アレクサンドル2世は近代化政策をとり、農奴解放などを実施した。当時の知的エリートはクリミア戦争での敗北をきっかけにヨーロッパの先進的思想に強い興味を抱き始めた。社会主義や無政府主義など新しい社会にあこがれ、それを獲得するには革命が必要であるという考えに至った。クリミア戦争が大事な契機である。
p56 スターリンの若かりし頃
スターリンの若き日々は革命の実行部隊だった。社会主義の勉強は浅かったようで、漠然とした革命的ロマンティシズムに没頭する男だった。若いころから功名心や支配欲に囚われた腹黒い人間というよりは、もっと単純な人間だったようである。
p59 スターリンと十月革命
ボリシェビキが権力を集めた1917年十月革命。この時スターリンはボリシェビキの古参の党員として頭角を現し始めた。それまでは理論よりも実行力を重視する革命家だったが、1903年シベリア流刑から徐々に経験に基づく革命思想を持ち始めたようである。
p90 スターリンの論文(民族自決について)
スターリンは民族自決についての論文を書いており、ロシアに多数散在する少数民族の自決権を社会主義は擁護すると述べている。この主張がロシア共産党のその後の少数民族からの指示につながった。
p92 スターリンとレーニンの考えの違い
レーニンはヨーロッパの先進的社会主義をロシアでも実現させることを考えていた。理論重視だった。
スターリンは理論よりも現実の社会主義革命の達成を優先していた。革命が達成すればスムーズに社会主義への移行が始まると単純に考えていたようである。この点、小難しい理論派よりも活動的なスターリンの方が民衆にとって身近で理解しやすい存在であったようである。
p144 組織腐敗のしくみ
ロシア共産党の人事制度に「ノーメンクラトゥーラ制」というものがあった。建前上階級の存在しないソ連では政治の要職に就くものを名簿(nomenclatura)に登録し、そこから順次割り当てるという制度にした。その結果、その名簿に載って要職に就くのは共産党に忠誠を尽くす者のみになり、共産党の一党独裁は完成した。これは1923年から始められ、早い時期から共産党の支配が可能な仕組みができていたのである。
「スターリン詣で」という役職斡旋のご機嫌伺いもあった。
p187 スターリンの権力欲
1932年の段階で、第二次大戦を乗り切るにはロシアに急進的工業化が必要であるとスターリンは政策を強行した。都市化の進行と輸出のため厳しい穀物調達を実行し、ウクライナなどでは飢餓も発生した。この政策に対抗し、党を除名されたり逮捕された者が多数出た。
この時のスターリンの権力欲は、彼自身が折れたら政策が水の泡になり結局ロシアの破滅しか待っていないという強い義務感にも支えられていたのだろう。それほど権力に縛られていたのである。
p203 粛清の責任
1936~38年の間に政治犯として134万人がとらえられ、68万人もの人が処刑された。当時の政治犯は党への抵抗者だけでなく、政策事業の失敗者も破壊工作者として責任を負わされたり、スパイ嫌疑をかけられた当上層部の妻や愛人、聖職者など党の方針に従がえない者、スパイ嫌疑のあるドイツや日本に近い異民族の人々など幅広かった。これはスターリンによる手が下されただけでなく、地方官の責任転嫁の犠牲や政治闘争の謀略などもあり、厳しい規則の負の側面の暴走という側面もある。スターリンの持つ政治目標を達成するための強すぎる意思が、いつのまにか正義の感覚をマヒさせた。それ故に「大粛清」は起きてしまったといえる。粛清の原因はスターリンの人格だけで片づけられるものではない。
p226 スターリン背水の陣
1942年のドイツ戦線で敗北を重ね、スターリングラードや南カフカスが危機的状況になったスターリンは、軍に厳しい指令を発した。戦時に戦地撤退など弱気を見せた士官を集めた部隊を被懲罰部隊として激戦地の前線に配置し、さらに士気の上がらない師団の背後に特別阻止部隊を置き、逃げ出すものは打ち殺すという恐怖指令を出した。大戦力をつぎ込んで戦果をあげられないソ連軍に背水の陣をしかせた。
p227 スターリンの厳格さ
スターリンの最初の妻との息子が1941年にドイツ軍の捕虜になった。ドイツはそれを利用したがスターリンは息子を特別扱いすることなく、息子ヤコフは捕虜収容所で亡くなった。「ヤコフはどんな死でも母国の裏切りよりも望んでいる。」スターリンは母の死に目に会うことなく、自分の政務を優先している。それほど党首として厳格な意識で職務についていた。
p228 戦術と戦略の区別
スターリンはあくまで実務的な人間で、戦地での戦術と戦略の区別を持っており、きちんと戦術は指揮官に任せ、自分は政治的戦略に注力した。士官への信賞必罰の態度をきちんと持っていて、実に冷静であった。
p239 ドイツ分割への懸念
第二次大戦後のスターリンの懸念は米ソ対立になかった。そもそも資本主義の発展版が社会主義という理念だから、あんなに過激な冷戦になるとは予想しなかった。それよりも、ドイツや日本が復讐戦を始めることの方を危惧していた。ナポレオン戦争で分割されたドイツはその時から愛国主義者が力を持ち始めて、のちの普仏戦争での強さを見せた。その再現を防ぐため、ドイツの分割は繊細に扱うべきだと考え提案していた。冷静な指導者である。
p248 ギリシアへの内政干渉
スターリンは戦後に米ソで対立する気はなかった。それほどの余力が残っていなかった。しかし1946年のギリシア内戦でソ連がギリシアの共産政府を支援すると米英はトルーマン・ドクトリンを発してそれに対抗してきた。ソ連はその支援がギリシアへの内政干渉にまでなるとは考えていなかった。米英とむきに争うほどギリシア情勢はソ連にとって重要ではなかった。ソ連はギリシアへの支援を中止し、ギリシアは民主主義国として独立したが、スターリンは米英のソ連への姿勢を疑うようになった。
p250 マーシャルプラン
スターリンが米国と覇を争う意志を持ったのはこの政策が出されたから。マーシャルプランは、戦後のアメリカの経済調整策(モノ余りを輸出する)の側面と民主主義勢の拡張という対外政策の側面がある。
ソ連も戦後の疲弊はひどく、マーシャルプランの援助は受けたかったが、対抗者の施しを受けるのは共産主義の指導的立場として憚られた。スターリンはこれをもってアメリカがソ連の弱体化を狙っていると確信した。これに対抗してコミンフォルムを作った。
p267 朝鮮戦争
ソ連は朝鮮戦争に積極的に加担しなかった。米ソの軋轢を深めることをしたくなかった。支援部隊も中国軍に偽装し、表立たないようにした。
p277 スターリン欠乏症
ソ連国民はスターリンの死に涙した。ソ連を偉大な力で牽引してきた指導者の死は、人々をある種の不安に陥れた。
たしかに酷いこともあったが、スターリンがいなければソ連が自壊していたかもしれない。彼に頼っていたところも多分にあった。拠り所を失ったとき、人は自然と感情的になる。
スターリンにより人生が狂ったものもいる。しかし、その者も彼の死に涙した。自分の人生を解雇して泣いたのか、将来への光が見えて泣いたのか、いずれにせよスターリンの存在の大きさを物語る。
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スターリン寄りの本だった。しかし、それだけのものがあった。
スターリンはイヴァン雷帝かピョートル大帝か。毛沢東かポルポトか、それともナポレオンなのだろうか。
しかし、スターリンはやはり時代が生んだ巨大な指導者だったと思う。月並み。
- 感想投稿日 : 2014年9月7日
- 読了日 : 2014年9月3日
- 本棚登録日 : 2014年9月3日
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