目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

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  • 光文社 (2015年4月16日発売)
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●:引用、→:感想

●事故や病気によって何らかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。リハビリと進化は似ているのです。生物は、たとえば歩くために使っていた前脚を飛ぶために使えるように作り替えました。同じように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された器官をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。→「「退化」の進化学」で読んだ”進化の反対が退化ではなく、進化と退化は同時に起こる”に通じる。
●足で対象を触覚的にサーチしながら、見えない人は道路を歩き、階段を登ります。さぐりながら進み、支えながらさぐる。(略)つまり、同じ「歩く」でも、見える人と見えない人では異なる運動をしているのです。第2章で、目以外の器官を使って「見る」方法についてお話しました。外見上は見える人と同じ「手で触る」行為が、見えない人においては「読む」役割を果たしていた。ここでも同様です。見えない人の足は、「歩く」と同時に「さぐる」仕事も行っているのです。
●実際、ブラインドサッカーでは音の出るボールを使いますが、葭原さんによれば、ドリブルしてシュートするのに本当は音なんかいらないのだそうです。音が必要なのはトラップのときだけ。それ以外の動きに関してなら、サッカーは視力を使わずにできるスポーツだということです。逆に視力を使わないことが、プレイの幅を広げることもあります。第1章で分析したとおり、見えない世界には死角がありません。つまり、自分の体が向いている前方と同じように、背中方向にいる後ろの選手の動きもよく分かるのです。
●つまり美術鑑賞にかぎらず、ふだんから断片をつなぎあわせて全体を演繹する習慣がついているのです。パーツいうと単純に組み合わせていくようですが、実際には、ある部分についてより解像度をあげた説明が加わったり、時間的な変化についての言及が追加されたりもします。それができるためには、新しく入ってきた情報に合わせて、頭の中で理解している全体のイメージを柔軟に変えることができなくてはなりません。つまり、見えない人の頭の中のイメージは、見える人の頭の中のイメージよりも「やわらかい」のではないか。そう感じることがあります。
●序章で、健常者の善意がかえって障害者に対して壁を作ってしまう、というお話をしました。よく分からないからこそ、先回りして過剰な配慮や心配をしてしまう。「何かしてあげなければならない」という緊張で、障害のある人とない人の関係ががちがちに硬いものになってしまうのです。障害者に対する悪意ある差別はもってのほかですが、実は過剰な善意も困りものなのです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 2016年に読んだ本
感想投稿日 : 2017年2月11日
読了日 : 2016年6月15日
本棚登録日 : 2017年2月11日

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